爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「皇子たちの悲劇 皇位継承の日本古代史」倉本一宏著

皇位継承者が居なくなりそうで問題だと言われている現在ですが、古代には皇位継承をめぐって激しい争いとなり、血生臭い戦いも数多く起きました。

そういった争いで敗れていった皇子たちについて、日本古代史が専門の倉本さんが詳述しています。

範囲は倭王権成立の仁徳天皇の頃から平家に政権が移る頃まで。

それにしても、天皇位の確保ということが本人だけでなく周囲を巻き込んだものであり、一族の存続をかけていたということが分かります。

 

大和時代から奈良時代にかけて、天皇は数多くの妃をもち多くの皇子をもうけますが、妃の身分によりその子の皇位継承の資格は決まっており、第一には妃も皇族ということが優先されていたようです。

母親が地方豪族の出身という皇子も数多く出るのですが、彼らはまったく即位の可能性もなく民間に降りていきました。

問題は母親の出自が高く、継承資格が同等の場合で、どちらにも即位資格が同様にある場合は様々な闘争が繰り広げられます。

 

頻発するのが「謀反あり」というタレコミで族滅されるという例で、聖徳太子の頃にも多くの皇子が家族ごと皆殺しといったことが起きています。

もちろんそのような告発は完全な創作の事が多く、中には内部告発したものが何の咎も無く昇進したということもありました。

 

推古天皇欽明天皇蘇我氏の娘との間の娘でしたが、異母兄の敏達天皇の皇后となりました。

しかしその間の子は早死にし甥の厩戸皇子聖徳太子に期待をかけました。

厩戸皇子蘇我氏の血もひいておりそこで皇位を継承させるというのが方針だったようです。

しかしその当時は天皇の譲位という制度が無く、推古天皇が長生きしたために厩戸皇子の即位が無くなってしまったということです。

さらに厩戸皇子推古天皇より早く死んでしまい、推古の大王位継承構想は完全に破綻してしまいました。

結局は敏達天皇が息長氏出身の妃との間に設けた子の系統に皇位は行ってしまいました。

 

桓武天皇の息子平城天皇聖武天皇係累藤原氏出身の妃などをあてがわれたものの彼女たちとの間に子を作ることはなく、身分の低い妃との間ばかりに子を作ることで周囲の思惑に反旗を翻しました。

そのため、平城の後には弟の嵯峨天皇が即位し、平城は上皇となったのですが、それでも政治力を維持するために様々な方策をとります。

嵯峨の後に自らの子の高岳親王を皇太子にしようと画策したのですが、嵯峨天皇側との争いは激化し、結局は兵をあげての戦いとなってしまいます。

それを薬子の変と呼びますが、実態は平城大上天皇の変と言うべきでしょう。

 

平安時代摂関政治の最盛期では藤原氏の最高権力者が娘を天皇に配し皇子を産めば皇太子とすることで外戚政治を謳歌していました。

道長が「この世は我が世」という歌を詠みましたが、その望月も欠け始めることとなります。

道長の兄道隆の娘定子が産んだ敦康親王は定子が早く亡くなったために即位のスペアとして道長によって養育されました。

しかし道長の娘彰子がその後男子を産んだため、敦康親王は邪魔者となりました。

父親の一条天皇は長子の敦康親王皇位を継がせることを望んでいたのですが、道長一条天皇にも知らせずに突然彰子の息子の敦成親王を皇太子とすることを決行します。

しかし敦康親王はその後まもなく若くして死にますが、それが怨霊となり道長一族に祟ることとなります。

敦成親王、即位して後一条天皇は病に苦しみ病死、道長もうなされながら病死することになり、敦康親王の祟りと言われることになります。

 

いやはや、大変な争いを続けてきたのが天皇家ということですが、今ではそれすらできないほどの状況となりました。

それも当然で、当時は何十人もの妃を持ち次々と子供を産ませていたのですが、今はそれができず一人の皇后だけですから、まあ少なくなって当然でしょう。

妻妾制度を何とか復活させなければ持たないのでは。