諡号(しごう)は「おくりな」とも呼ばれ、天皇の死後に付けられる呼び名です。
現在の天皇は「今上天皇」ですが、明治以降一世一元ということになり、その元号が諡号とされるのは間違いありませんので、死後には「令和天皇」と呼ばれるのでしょうが、現在はまだそう呼ぶことはできません。
こういった諡号は天皇家の歴史の中で色々な変遷をたどってきました。
その歴史について解説しているのが本書です。
諡号と言うものが生まれたのは古代中国です。
王や皇帝には諱(いみな)つまり実名はあるのですが、臣下などがそれを使うことはできず、王様とか皇帝陛下といった呼び方をしていました。
しかし王や皇帝が死んで代替わりすると新たな主君を王様や皇帝陛下と呼ぶことになり、前代の主君を何と呼べばよいか問題となります。
そこで亡くなった主君に諡号(おくりな)というものを贈り、それで呼ぶという習慣が生まれました。
周王朝の王たち、文王、武王、成王といった名前はその諡号です。
諡号の付け方が諡法というもので、様々な人々がその解説書を書いていますが、用いる文字にも三種あり、美諡、平諡、悪諡と言われています。
これは亡くなった王の業績や行為を判定するという意味が込められており、特に中国では王朝の交代ということも頻繁にあったためその最後の王はたいてい暴虐な行動で悪諡がおくられました。
幽王や煬帝という名はその悪諡にあたります。
なお、そのような後代からの批判は受けないとして諡号を廃止したのが秦の始皇帝であり、始皇帝から始めて二世、三世とつなげていくはずでしたがすぐに滅亡しました。
そのような中国の思想が日本に輸入され、日本でも天皇の死後に諡号がおくられるようになります。
その形式は国風諡号(和風諡号)、漢風諡号、そして追号に大別されます。
国風諡号とは持統天皇が「おおやまとねこあめのひろのひめのみこと」であったり、聖武天皇が「あめしらしくにおしはらきとよさくらひこのみこと」であったものを指し、これに漢字を当てはめています。
これは古代から続いた天皇の名前を応用し諡号として使われるようになったようです。
漢風諡号は中国の制度をそのまま輸入して用いたもので、文や武の字を用いるのも中国の制度同様のものです。
多くは奈良時代までの天皇に献呈された諡号ですが、江戸時代にも使われたことがあります。(光格天皇、孝明天皇)
なお、明治時代になって追贈された弘文、淳仁、仲恭などを含め59人の天皇も漢風の諡号を贈られています。
なお、日本では王朝交代は行われなかったため悪い意味をもつ諡号は使われていません。
しかし天皇の代替わりというものが安定的に行なわれるようになると、先帝の業績を評価し顕彰するという必要がなくなり、国風諡号も漢風諡号も使われなくなっていきます。
そこで使われるようになっていったのが「追号」というものでした。
追号には、「在所号」と呼ばれる、地名や宮・邸宅名など。
「山稜号」という、山の名前
「加後号」という、「後」の字を付け加えた名前。
「二つの漢風諡号を合わせたもの」
そして現在の「元号をもって追号としたもの」が当てはまります。
その例はそれぞれ、「一条・堀河・嵯峨等」「醍醐・村上・東山」「御醍醐・後小松」「明正、零元」「明治、大正、昭和」となります。
桓武天皇の後を受け天皇になったものの、3年で天皇位を弟の嵯峨天皇に譲り上皇として旧都の平城宮に住みました。
そして藤原薬子を寵愛し嵯峨天皇と対立し薬子の変を起こしてしまいます。
悪諡が贈られても良かったような天皇だったのですが、それはせずに平城宮に住んだからということで平城天皇と追贈されました。
諡号は新たに即位した天皇が先代を評価することによって自らの権威を示す意味がありますが、その諡号を自分で決めてしまうということが日本では数例あります。
こういった例は中国をはじめ東アジア各国では見ることができません。
白河院をはじめ15人いるそうですが、特に注目されるのが鎌倉後期からの後嵯峨院から御醍醐天皇で、伏見院と後二条院を除く7人が自ら死後の呼び名を決めていました。
これは皇位継承権が不安定だった時期で、自らの正当性を示すために決めていたものと考えられます。
天皇の呼び名がこれからどうなっていくのか、天皇制自体がどうなるかという問題もありますが、共に考えていきたいものです。