川は急流であり降水量は極めて多い日本列島では、治水というものは古代から現代まで非常に大事なものでした。
その治水というものの歴史を神話の時代から説き起こして現代までを説明するのは、建設省勤務から始まり治水の現場に関わり続けてきた著者の竹林さんです。
最初に揺籃期として神話の時代から古代のもの、次に発展期として戦国時代から江戸時代まで。
最後は明治から現代に至るのですが、その時期は「成熟・混乱期」とされています。
治水においては必ずしも現代の技術が最高というわけではなさそうです。
日本で治水技術というものが急激に発展したのは戦国時代末期です。
有名なのは武田信玄の数々の治水工事で、今でも山梨県各地にその成果を見ることができます。
信玄はどうやってそのような治水技術を考えたのか。
実はその起源は中国にあるようです。
2250年前、現在の中国四川省、成都の近くにある長江の支流泯江に李泳・李二郎の親子によって築かれた都江堰という治水システムは今でも残っているものですが、そのシステムと信玄堤のものはあまりにもよく似ています。
信玄は中国古典をよく学んだと言われていますが、その中に治水技術について書かれたものも含まれていたのかもしれません。
また、中国へ留学した僧侶も信玄の教育係として迎えられており、彼らが伝えた可能性もあります。
現に明国に二度渡った策彦周良はその後恵林寺の住職となっていますが、彼が治水を指導したことを示す石碑が残っているそうです。
その後の治水に優れた大名としては加藤清正が有名ですが、信玄と清正をつなぐ人物がいました。
それが佐々成政です。
彼は信玄に仕えた治水技術者たちを受け入れ、越中を治めていた時にその地で多くの治水事業を完成させています。
その後、成政は秀吉によって切腹させられるのですが、その家臣たちは他の大名に仕えることは自由とされました。
そこで加藤清正に仕えたのが大木兼能、鍋島藩に仕えたのが成富兵庫で、どちらもその地の治水事業に大きな業績を残しました。
信玄と清正の治水は、その土地の特性が異なるために少し違ったものとなっています。
甲斐の国は河川の上中流部でとにかく洪水時の氾濫の激しいところでしたので、その対策が主となったのですが、清正の収めた肥後の国はそれと共に干拓地などで水不足に苦しむ地域も多く、治水とともに利水にも大きな比重が置かれたという特色があります。
清正の治水には十の知恵があるということで、列記されていますが、それぞれに今にその成果が残っています。
「鼻ぐり井手」というのは今でも有名なもので、現役です。
信玄、清正と並び、鍋島藩で治水を担った成富兵庫と言う人は、やはり大きな業績を残しました。
清正の肥後とも近いのですが、佐賀平野の特性というものがありやはりその土地独自の技術を開発しています。
佐賀平野には筑後川の河口も近く、非常に大量の水の流下がありますが、それが干満差の大きい有明海にそそぐために満潮時には川の水の行き場がなくなり溢れる危険性が大きくなります。
嘉瀬川から多布施川に分流するシステムを12年かけて完成させたのですが、そこで用いられた石井樋(いしいび)という装置は非常に優れたものだったようです。
戦国から江戸時代にかけて培われてきた治水技術ですが、明治に入り外国人技術者を招いた頃から混迷していくことになります。
新潟で日本海にそそぐ信濃川は新潟市周辺に大きな洪水を何度も引き起こしていましたが、その対策として途中で日本海に入るように流れを変える大河津分水という工事が行われました。
しかし技術の未熟さと政策の失敗で何度も工事は中断し、一応の完成を見たのは昭和に入ってからでした。
その中でも大失敗と言えるのが3つあるということです。
一つ目は、岡部三郎の自在堰、基礎地盤が脆弱であることに気づかずその場に不向きなものを作ってしまいました。
二つ目が、明治7年にほぼ完成していた分水工事を、現地のことをほとんど理解していなかったお雇い外国人のリンド、ブラントンの意見により工事中止を決定した楠本正隆県令です。
リンド、ブラントンは現地を数日間訪れただけでその中止を勧告してしまいました。
それを安易に受け入れた県令も同罪です。
三つ目が分水路の設計ということです。
分水路は通常の川の構造と異なり、上流が広く下流が狭い。また河底の勾配が上流が緩く下流で急になっており、災害発生の要因となっています。
明治初年の外国人技術者の招聘では、治水技術者はオランダから選ばれました。
確かにオランダでは干拓工事などで堤防建設といった工事は数多く行われていましたが、日本のような急流の河川の知識などは乏しく、対応できなかったようです。
分からないままいい加減なことを言うだけで帰っていきました。
堤防を築く治水工事は決して完全なものではなく、ある程度以上の降水があれば必ず決壊や破堤となります。
その時の対策として昔から知られていたのが「態と切り」(わざときり)と言われるもので、居城や市街などの逆の堤防をわざと切ってそちら側に水を流すというものです。
この例は数多く見られ、現代に入ってからも行なわれました。
ただし、かつてのように領主が決定して行うなら仕方のないこととされても、現代で川の両側の自治体の長が別々に決定したのではまとまりません。
現在ではこれはできないことになっていますが、今後も必ず必要となる事態がやってくると予測しています。
絶対に切れない堤防などというものが無い以上、人為的堤防切りという対処は避けられません。
本書最後は「河川技術混迷の時代」です。
技術者側としても河川の本質を見て学ぶという態度が無くなっているのですが、それ以上にひどいのが関係者です。
現場など何も知らない「学識経験者」
選挙のことばかり考えている「政治家」
真実を伝えることより混迷を作るだけの「マスコミ」
自己保身しか考えない「役人」
このような連中に振り回されていれば、「国家百年の計」である治水などできるはずもありません。
原点回帰が必要とまとめられています。