爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「民衆暴力 一揆・暴動・虐殺の日本近代」藤野裕子著

暴力はすべて国家権力に取り上げられた近代ですが、それでも時折爆発的に民衆が暴力をふるうということが起きます。

この本では日本の近代においてそういった民衆暴力というものがどのように起きたかということを振り返ります。

 

取り上げられている4つは、新政反対一揆秩父事件、日比谷焼き打ち事件、関東大震災時の朝鮮人虐殺です。

民衆暴力とはいえ、背景もその性質もかなり異なる事件ですが、民衆が暴力に訴える事態に至るというのはどういうことか、詳しく解析しています。

 

新政反対一揆というものはあまり耳慣れたものではありませんが、そういった事件が起きたということはおぼろげながら聞いたような気もします。

政治制度が大きく変わった明治維新ではありますが、民衆にとってはとても良いこととは言えないような事態でもありました。

厳しいとはいえ安定していた年貢の納入に替えて税の徴収となりましたが、政府自体があやふやな面もあったために急激に重税となったということにもなりました。

さらに一般民衆にとっては関係のないことだった軍隊への従軍ということも義務となりました。

子供を学校に行かせなければならなくなり、しかも学費もかかるなどと言うのも大きな負担となりました。

このような「新政」というものに対して反対する一揆というものが各地で起きました。

そこには民衆のやむにやまれぬ事情も見えたものでした。

ただし、そればかりでなく「被差別部落の襲撃」といったことが発生した例も各地にありました。

江戸時代に長く続いた賤民制度が明治になり廃止されましたが、それに対する反発が強かった地域もありました。

それが新政に反対する一揆の際に同時に爆発して被差別部落を襲うというような事件も起きてしまいました。

 

それから10年ほどたった1884年、各地で自由民権運動が高まりを見せたのですが、秩父地方では秩父困民党などと呼ばれた農民たちが借金の据え置きや学校休校、減税などと求めて蜂起し、高利貸の襲撃や役所警察などの襲撃を起こしたものです。

時期が近かったため自由民権運動との関連も指摘されましたが、実際にその運動に関わっていた人物と蜂起に参加した者とはほとんど重ならず、農民一揆の性格が強いものでした。

しかし、江戸時代で一般的な農民一揆はさほど暴力的ではなくあくまでもお上の公平な裁きを平和的に求める性格が強かったのに対し、明治になってからのものは暴力性が強くなり殺人も起こします。

そこには法律の条文通りの厳しい執行に対する反発もありました。

この時期には西南戦争の戦費調達で政府の財政が困窮しており、その対策として松方正義大蔵卿が推進した「松方デフレ」という政策で物価も低落し、特に秩父地方の特産であった蚕糸の価格が低迷して農民の多くが困窮し借金が多くなり破産する事例が多発しました。

そういった場合、江戸時代であれば農民をそこまで追い詰めることなく「徳政」を発して借金を軽減すると言った措置も取られたのですが、明治になれば公権力が破産を決め農地を奪い取るということになり、小作人となるしかなくなった農民が続出しました。

そう言った人々が決起したわけです。

 

1905年、日露戦争講和条約が結ばれることとなりましたが、その破棄を求める国民大会が開催されます。

それまで戦争の各局面で勝った勝ったという報道で煽られていた国民はそれだからこそ徴兵や国債購入に協力しており、勝利の暁には日清戦争時のような多額の賠償金が取れるものと期待していたのですが、賠償金は無し、領土もわずかに樺太の半分だけという講和条件にいきり立ちました。

これに反対した運動が多発したのですが、9月5日には日比谷公園において国民大会を開催されます。

3万人とも言われる参加者がその後暴徒化し、警察署や電車を襲い放火するという事件に発展しました。

ただし、国民大会の参加者とその後の暴徒とは同一ではなくかなり違いがありそうです。

暴動は日比谷公園から広がり東京の各所に及んだのですが、最初の国民大会参加者に加えてその後どんどんと加わったものがあり、それが暴動の激化を引き起こしたようです。

後から暴動に加わっていった人々は、「職人・工場労働者(職工)、日雇雑業層(荷役人夫・車夫など)」であったそうです。

実はこの時期の工場労働者という人々は工業というものの性格が大きく変わる転換期の中で非常に不安定な身分となっていました。

江戸時代から明治初期までは徒弟制による身分制のもと手工業の職人がその担い手でしたが、徒弟となって修行していけば中には独立して親方となる道も開け、さらに小金を貯めれば商店を開ける見込みもありました。

しかしこの時期には工場制に移行しそういった独立の道はなくなり、さらにその後開ける労働者の労働条件向上の方向性もまだ始まらず、職工と言われる工場労働者の労務環境や人生設計はまったく悪い状況となっていました。

そのために暴力的な不満の爆発を起こしやすい人々が多数居たようです。

それがたまたま起きた騒擾になだれこんだとも考えられます。

 

関東大震災時の朝鮮人などの虐殺は、いまだに正確な被害者数も分らず全容がつかめていません。

政府自体がその把握を行うという意志を持たないかのようです。

それはこの虐殺の発生に公権力が極めて大きく関わっていただけでなく、実行にも警察や軍隊が直接関与していた疑いが強いからです。

政府の公式発表というものはありませんが、多くの研究で得られた証言から、朝鮮人の暴動発生の恐れというものが警察から発表されたのは間違いなく、それが虐殺につながったということも明らかです。

そしてその実施者が各地で作られた自警団だということになっていますが、そればかりでなく警察や軍隊も実行したと言われます。

ところが、その後検挙され裁判にかけられたのは自警団ばかりでした。

公権力の責任は結局まったくうやむやにされたのでした。

ただし、自警団として発揮されたのはやはり民衆の暴力です。

そこには、朝鮮人という存在に対してそれ以前から持っていた不安感などがあったのでしょう。

さらに朝鮮の植民地化や直前に起きた三一運動とそれに対する日本の弾圧といったものがあり、それに対して朝鮮人からの報復があってもおかしくないという思いもあったかもしれません。

そういった潜在意識があったところに、大震災が起き、さらに警察などの公権力からの「朝鮮人に気をつけろ」といった発表もあり、やられる前にやってしまえという感覚になってしまったとも言えます。

 

誰でもそういった心理に陥る危険性があるということは認識しておく必要があります。

ここに挙げられた事件は、決して「今ではもうあり得ない」ことではないと考えるべきでしょう。