中国前漢時代の司馬遷は歴史家の始祖とも言われていますが、史記を書きあげて後の世の中国歴代王朝の歴史書の起源となったと考えられます。
この本はその司馬遷の史記について、戦前から戦後にかけて作家として活躍した武田泰淳が書いたものですが、小説ではなく歴史論とも言えるものとなっています。
武田の発表した著作としては最初のものですが、東京帝大支那文学科卒ですので、史記についての学術的考察といった趣が強いのでしょう。
なお、はじめの出版は昭和18年(1943年)であり、著者31歳の時ですが、その後も何度も改訂され出版が重ねられています。
史記は中国だけでなく日本でも広く読まれそれに関する研究も古くから数多く為されてきましたが、その潮流がどのようなものか、正確には分かりませんので、この武田の考察がどういった特色があるのか、定説に何か新たな反論を加えたのかといったことがよくは分かりません。
しかしこの2022年発行の中公文庫版には初版の序文、後記から各時期のものまで掲載されていますので、それを見ていけばある程度は分かるかもしれません。
最後の「結語」の部分には、武田の戦争中の情勢を考えた?記述があります。
「史記的世界は要するに困った世界である。現代日本人(戦争中の)と全く対立する。日本は世界の中心なりと信じている日本人、かつその持続を信じている日本人からすれば、武帝を信じ切れぬ司馬遷ごときは不忠極まりない」とされていますが、これは解説でも指摘されているように、明らかに武田が承知しきって書いている部分であり、本人はまったくこうは考えていないことは明らかなものです。
史記の時代は今の世界と比べればはるかに狭いのですが、それでも司馬遷はその世界を自分の考える一つの観念で書き表していきました。
本紀は帝王や王朝について記していますが、そこに漢の呂后を入れたのも司馬遷の歴史観なのでしょう。
本来ならば帝位についたわけでもない呂后は本紀とはしないはずですが、それをあえて本紀とした。
司馬遷が書き綴っていた当時の武帝にとってもそれは不快にあたるはずであり、もしも知られたらただでは済まなかったでしょう。
本紀に続く世家は、王朝を開くまでには至らなかった春秋戦国の諸国や、漢王朝の諸王などについて記していますが、そこに孔子も含まれているのがこの世家というものに含ませた意味を表わしているそうです。
孔子までの世家はすべてその後滅んだ国ばかりです。
そして、孔子という存在もその後は儒教の祖として崇められますが、その人の世は何も成し遂げられず滅びた。
史記には「表」と呼ばれるものがあり、現在でも年表としてあちこちで使われているものですが、こういった形式の歴史記述は実にこの司馬遷の発想に始まります。
しかも普通であれば年の流れはいつをとっても同じであるので、同じ形式で作っても良さそうなものですが、年の長さを適宜変えて見やすい形に作っている。
それも司馬遷の発想の一つと見られます。
史記の片々を読んだことはありますが、やはりきちんと取り組む価値のあるものなのでしょう。