久しぶりに「八代の歴史散歩」です。
今回は、戦国時代以前からの港であった「徳淵の津」を見てきました。
戦国時代に八代を訪れたルイス・フロイスの「日本史」には八代は肥後の国でももっとも栄えた町であると書かれていて、古麓の城下町、宮地の門前町とともに徳淵の津を中心とした港町が繫栄していました。
その交易先は長崎などの国内ばかりでなく、琉球や中国にも直接出航していたようです。
現在では八代松江城址のすぐ南の前川の堤防に徳淵の津跡と表示されているのみで、当時を思わせるようなものはありません。
この反対側には一応案内板が設置されて説明を読むことができます。
地図と歴史、そしてかつての写真などが書かれており、最近のもののようで鮮明です。
他のブログ主さんたちのように、文字の書き起こしなどは面倒なので省略。
一か所だけ、歴史の最初は1435年、当時の領主の名和氏が朝鮮へ向けてここを出発したとあります。
その先の風景です。
この川岸がおそらく当時の船着き場だったということです。
なお、この付近はここから1㎞ほど上流で球磨川と分岐した前川が流れていて、下流にはまだ数km続いているのですが、当時は干拓も進んでおらずすぐ近くまで海が迫っていたものと思います。
その先に見える橋は前川橋と言って、1930年(昭和5年)に架けられたものです。
現在はその数十m先に新前川橋が建設されて自動車はそちらを渡り、前川橋は歩行者自転車専用となっています。
干拓が進み海から離れると徳淵の津は使いにくくなったのでしょうか、徐々に下流側に移っていき、蛇篭港、八代内港、そして現在の八代外港となっていきます。
戦国時代から江戸時代にかけて、ここを拠点とした交易による繁栄は目を見張るものだったようで、今も残る八代妙見宮大祭の神幸行列での笠鉾は当時の繁栄ぶりを伝えるものとなっています。
残念ながら今年も去年に続いて11月の大祭での行列は中止となりましたが。