「古文書に見える中世の八代」という本を読みましたが、その著者の高野茂さんの講演会が開かれたので出席してきました。
古代から様々な歴史が繰り広げられた八代地方ですが、それに関連する文書資料を丹念に調査研究してきた高野さんの話は興味深いものでした。
この講演会は八代市立博物館友の会が創立30周年を迎えた記念として特別講演会として開かれたものです。
高野さんの著書の内容も長らく博物館の会誌の「松籟」に掲載されてきたもので、この講演会もその中から特に興味深いものを取り上げたものでした。
読書記録で書き留めていたのですが、直接話を聞いてみると本を読んだ時には気づかなかったり見落としていた点がいくつもあり、読書力の不足にあらためて気づかされます。
書籍の冒頭にもあった、平安時代末期に初めて文書に「八代」の文字が現われたという例で、「高野山文書」にあった訴訟の記録ですが、ここに出てきた「八代藤三重永」なる人物はおそらく菊池氏の縁戚で八代を所領とした人物だったということです。
しかしこの人物は「人馬などの強奪をして訴えられた」方だということでした。
そのためか、その後は記録に残ることもなく子孫も消え去ったそうです。
八代平野は古くから干拓をして田を広げていったのですが、その記録はすでに鎌倉時代の頃から残っています。
1276年の小早川文書(八代地方の旧家に残る)にも「新々開」という文字がありますが、これは何度も干拓を繰り返したという意味だそうです。
室町時代以降の八代支配は名和氏から相良氏、島津氏と移ったと理解していましたが、その相良氏支配の時代にも2つの時代に大きく分かれるそうです。
1504年に名和氏を追って相良氏の支配が始まり、1581年に島津氏に敗れるまでの約80年の間続くのですが、大友氏が肥後支配を強化した1535年頃からは実質的な大友氏支配となり、その肥後守護である菊池義宗が正月などに頻繁に八代を訪れ、一同との年頭のあいさつと称する支配関係の確認の行事が行われていました。
年代記にはその事実のみが書かれているため裏の意味が分かりませんでした。
非常に興味深い話を聞くことができました。