爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「内田樹の研究室」より「『予言の書』としての『1984』」

ジョージ・オーウェルの作品、「1984

1949年に発表されたものですが、そこで描かれた世界が1984年よりはかなり遅れたものの、徐々に実現されているのではないかとして、再び注目をされているようです。

 

新訳されて刊行されたということですが、その解説を内田さんが書かれたので、それに関して「月刊日本」誌にインタビューが掲載されるとのことで、例によって?ブログにも発表して宣伝だそうです。

blog.tatsuru.com原作の1984ではスターリン時代のソ連をモデルに厳しい監視社会を描いていますが、特にコロナ感染拡大の世界は人々が相互監視を強めているのではという思いが強まっているのでしょう。

 

ただし、1984のような監視国家に日本がなるかと言えば、内田さんもそれは無理と言明します。

何しろ、マイナンバーカード普及すらできず、コロナ感染監視アプリCOCOAのような簡単なシステム構築もできないのですから、政府がそのようなことをやろうとしても無理でしょう。

仮に国民監視システムを作ろうとしても、どうせパソナ電通に丸投げして、そこが中抜きしてどこかに再委託して、そこがまた中抜きして...ということを繰り返して、最終的にはどこかの小さな下請け会社で時給1500円のバイトの兄ちゃんが納期に追われて徹夜続きで作ったバグだらけの国民監視システムを納品する...ということになると思います。

その通りだと感じます。

 

世界的にこのような傾向が強まっているとしても、日本は他国の要因とはかなり違うのだという主張があります。

日本の場合は国民全体の「幼児化」「愚鈍化」がその原因ではないか。

 

そして、「父性」と「母子癒着」にまで話は進んでいますが、その辺はどうでしょう。

あまり話を単純化すると間違えるかもしれません。

 

しかし、監視社会といっても「誰が」「誰を」監視するんでしょうね。