爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「スペインのガリシアを知るための50章」坂東省次、桑原真夫、浅香武和編著

スペインにも特色のある地方があり、アンダルシア、カタルーニャバスクといった名前は聞いたことがありました。

しかし、「ガリシア」という地方もあるということもほとんど知りませんでした。

 

ただし、「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」という、キリスト教の聖地があり巡礼で訪れる人が多いということだけは聞いた覚えがありました。

 

そのガリシアについて、様々な方向からの解説をしたという本で、編著者は上記のお三方ですが著者は多数です。

 

ガリシアはスペインの北西部で、ポルトガルの北隣に位置し、スペイン中央部からは相当な距離があるところです。

大西洋岸は深い入り江(リア)がありますが、そもそも「リアス式海岸」という名称はここからきているということです。

また大西洋の影響で雨が多く、スペインの他の地域とはかなり違った風土となっています。

農業生産性も昔から高かったため、人口も多かったのですが、その多くが移民としてアメリカやヨーロッパに出ていきました。

キューバ革命の立役者、フィデル・カストロも2代前にガリシアを離れキューバに移民していました。

他にも中南米に広く移民しています。

 

ガリシアの人々はスペインの他の地域の人々とは異なる民族であると自覚しています。

ローマ化以前にはケルト人が全域に居住していたのですが、ケルト人の系統が残っているというわけではないようです。

その頃にここに住んでいたのがガラエキ族というケルト人の一派で、これが「ガリシア」という名称の元になっています。

またそれ以前から住んでいた非インドヨーロッパ語族のイベリア人と混血していった可能性もあります。

このようなケルト・イベリア人が作っていたのが、「カストロ」と呼ばれる石造りの堅牢な家でした。

このような歴史から、ケルト人ではないにしても文化的にケルト的な雰囲気を残しています。

 

ローマ時代、ゲルマン時代、イスラム時代のいずれも、一応その支配下に入ったものの辺境ということでそれほど強い支配をされることもなく、地域の独自性が守られたようです。

そのために独自の地域性を守る伝統が作られました。

 

この地域を非常に特色付けているのが、聖ヤコブ遺跡です。

エスキリストの弟子である使徒ヤコブエルサレムで紀元44年頃に殉教しました。

しかしその遺骸はヤコブの弟子たちによって運び去られ、船に乗って漂流した後、ガリシアに着いたという伝説があります。

そして、そこで葬られその墓が9世紀になって発見されました。

そこが現在のサンティアゴ大聖堂であり、サンティアゴ・デ・コンポステーラという名が付けられました。

墓の発見のすぐあとから、多くの巡礼者が訪れるようになりました。

特にフランスからの巡礼者が多く、最盛期の12世紀には年間50万人以上の人々が訪れたようです。

サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者は目印としてホタテガイの貝殻を身につけていました。

カトリックの三大聖地として、エルサレム・ローマと並んでこのサンティアゴ・デ・コンポステーラが挙げられます。

しかし、その雰囲気は本書の中でも描かれているように、日本の四国八十八か所善光寺参りに似たものがあるようです。

巡礼者に対する奉仕がガリシア中に浸透しているというのもそういった比較を納得させるようなものかもしれません。

 

ガリシアと日本の交流というものは非常に少ないのですが、1543年に種子島ポルトガル人が漂着したあと、次に日本本土に来訪した船員のペロ・ディエスという人物はガリシア出身だったそうです。

 

現在でもガリシアではスペイン語カスティーリャ語)と並んでガリシア語が使われています。

その起源はラテン語から俗化してロマンス語となったものですが、12世紀ごろにはガリシアポルトガル語として成立していました。

しかし、1143年にポルトカレ伯爵領がポルトガルとして独立するとその後はポルトガルガリシアとは別の道を進むことになりました。

ガリシア語にはスペイン中央のカスティーリャからの圧力が強まり、ポルトガル語との類似性は残るもののかなり異なっています。

現在でもガリシア語使用の方針はあるものの、スペイン語との併用という形になっているため、どうしてもスペイン語優先になりがちのようです。

 

ガリシアとは、なかなか魅力のある地域のようです。