内田樹さんは著書が多数韓国でも出版されているせいもあり、韓国でも講演活動をされていますが、今年はそれもままならぬということで、リモートでの講演となったそうです。
そのテーマと言うのが、「ポストコロナの社会」そして「平時と非常時」についてだったとか。
日韓ともにそこそこコロナウイルス拡散を防いでいるようですが、そこで都市封鎖のような強権発動についても考えさせられる事態になっているということでしょうか。
blog.tatsuru.com講演に先立って、主催者側から受けた質問票にも、「感染症対策としての自由の制限」や「強権的な政治の可能性」といった問題について触れてあったそうで、やはりこういった問題がどうしてもクローズアップされるのでしょう。
その質問に答える形で、講演でも話されたようですが、その概要がまとめられています。
感染症対策としてある程度の自由の制限はあり得るということです。
ただし、それには条件があります。
それは、「政府の方が一市民よりも複眼的に事態をとらえており、何が起きているのかについて正確に理解しているということを市民が信じているということである。政府はいかなる私念も、いかなる党派性も、いかなる偏見もなく、現実をありのままに見ているということを市民が信じているということである。」
ということです。
政府のやる「コロナ対策」が、首相周辺のお友達を儲けさせるだけのような事業ばかりというところでは、とても国民の行動制限で感染対策などということは不可能と言うことでしょう。
なお、この結論に至るまでの「正常性バイアス」についての話も興味深いものでした。
少しの異常にもバタバタするのも問題ですが、この正常性バイアスによって必要な避難もできずに命を落とすといった事例も報告されています。
この例として内田さんは、セウォル号事故、東日本大震災、御嶽山噴火の際の被害者の行動をあげていますが、どれも「自分であったらどうだったか」と考えると危険性が身に染みて感じられます。
正常性バイアスというものも、できるだけパニックに陥らずに行動するということでは必要な面もあるのでしょうが、非常時というものはそれをはるかに越える災害として降りかかってくるものですので、平時から非常時への切り替え、つまり「正常性バイアスをストップさせる」スイッチの発動が必要となるのでしょう。
トランプに代表されるような「コロナマッチョ」(マスクをしたりソーシャルディスタンスを取ろうという動きを嘲弄するような人々)は客観的な判断をしようとして自分の周りの狭い範囲だけを見て「まだ誰もコロナにかかっていない」と考え、大丈夫と決めつけるのだそうです。
しかし、物事をさまざまな方面化から複眼視できれば、自分の周囲だけでなく世界のあちこちで起きていることを取り入れて判断することができる。
そういった考え方ができれば正常性バイアスからも抜け出して適切な判断ができるということです。
そして、これが「信頼される政府」が取るべき姿勢であり、それができる政府であれば「自由の制限」をも国民に示すことができるのでしょう。
また、日本の政治状況から見れば夢の国のような話で、ため息が出そうです。