爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「内田樹の研究室」より、”大学の株式会社化について”

日本の科学技術レベルの低下について、ようやく科学技術白書も認めたということです。

そして、それは日本の大学が「株式会社化」を目指した時にすでにそうなることが決まっていたということです。

大学の株式会社化について (内田樹の研究室)

 

独立行政法人と言う名前になっていますが、この内容はまさに「株式会社」を狙ったものとなっています。

21世紀初頭に進められたこの動きは、当時強力な勢力を持っていた新自由主義者たちが率いました。

「株式会社化」というのは、「すべての社会制度の中で株式会社が最も効率的な組織であるので、あらゆる社会制度は株式会社に準拠して制度改革されねばならない」というどこから出て来たか知れない怪しげな「信憑」のことである。いかなる統計的エビデンスも実証データもないままに、その頃羽振りのよかった新自由主義者たちが教育・医療・行政・・・あらゆる分野で「改革」を断行せねばならじと獅子吼したのである。

このようなムードの中で、何でも株式会社が最高とばかりに改変していったのです。

 

それでは、その「株式会社化」とはいったい何なのか。内田さんは次のように説明しています。

彼らの考えるた「株式会社化」はおおよそ次のような原理に基づいている。
(1)トップに全権を集約して、トップが独断専行する(上意下達)。
(2)トップの下す経営判断の適否は、組織内の民主的討議によって「事前」に査定されるのではなく、マーケットに選好されるかどうかで「事後」に評価される(市場原理主義)。
(3)組織のメンバーではトップの示すアジェンダに同意するものが選択的に重用され、トップの方針に非協力的なものはキャリアパスから排除される。公共的資源もこの「トップのお気に入り度」に基づいて傾斜配分される。(イエスマンシップと縁故主義)。
上意下達・市場原理主義イエスマンシップ・縁故主義・・・と並べると、「今の日本の組織って、全部そうじゃないか・・・」と深く頷かれることと思うが、この四つが21世紀日本社会を覆い尽くした「株式会社化」運動の基本綱領である。

 

まさに、株式会社の原理というものを簡潔に表現されています。

 

確かに、「民間の営利会社ならそれで勝手にやってよ」ですが、「社会的共通資本」であるところの、行政や教育、医療などはこれでは困ります。

 

内田さんの挙げておられる例で、かつてある政治家が地方自治の実態をみて「民間では考えられない」と批判したそうです。

その政治家の意識は「このようなやり方は株式会社ではありえない」ということなのですが、地方自治の現場がすべて株式会社の論理でできるはずもありません。

 

その勘違いが大学の株式会社化にも存在しました。

その帰結がこの結果です。

「人間が集団として生きてゆくためにほんとうに必須のもの」と「(あってもなくてもよい)商品」を混同して、商品の開発・製造・流通と同じ要領で社会的共通資本も管理できると思い込んだ。そのせいで、今の日本は「こんなざま」になってしまったのである。
断言させてもらうが、大学の学術的生産力の劇的低下は大学の株式会社化の必然の帰結である

 

実は、日本の教育がもうダメだということを海外のメディアが報じていました。

しかし、日本政府は何の反論もせず黙ったままだったそうです。

本の学校教育が「もうダメ」だということはすでに一昨年秋にForeign Affairs Magazineが伝えていた。日本の教育システムは「社会秩序の維持・産業戦士の育成・政治的な安定の確保」のために設計された「前期産業時代に最適化した時代遅れのもの」であり、それゆえ、教員も学生もそこにいるだけで「息苦しさ」「閉塞感」を感じている。文科省が主導してこれまで大学の差別化と「選択と集中」のためにいくつものプロジェクトが行われたが(COE、RU11、Global30など)、どれも単発の、思い付き的な計画に過ぎず、見るべき成果を上げていないというのが同誌の診断であった。
私がなによりも問題だと思うのは、このような海外メディアからの指摘に対して文科省が無言を貫いたことである。
文科省の過去四半世紀におよぶ教育行政の適切性に疑義を呈したのである。それを不当だと思うなら、正面から反論すべきだった。同誌に抗議して、記事の撤回や訂正を求めても罰は当たるまい。

 

そうこうしている間に、文科省局長が収賄で逮捕というスキャンダルが起きました。

この局長が「科学技術学術政策局」であるというのもブラックジョークのようなものです。

大学入試の科目の中に、英語の民間試験を入れると言う問題も、当時の文科省大臣が受験産業出身で学習塾業界から資金援助を受けていたというスキャンダルの種もあったようです。

 

ちょうど今はかつての蓄えをはたいてノーベル賞受賞が相次いでいますが、この後はどうやらほぼその望みが消えてしまうようです。

私も知り合いには理系研究者が何人も居ますが、厳しい状況であるのは聞きました。

このような状況で技術立国は不可能でしょう。