爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「内田樹の研究室」より「反知性主義者たちの肖像」

内田樹の研究室」というブログに表題のようなかなり長い文章が掲示されました。

内田先生がどこかに発表するための文章かとも思ったのですが、そういった表示もありません。

文章内には学生さんに語り掛けるような部分もありますが、その用途のものとも断定はできません。

まあ、若い人向けに「反知性主義とは何か」といった問題を考えさせるような目的で書かれたものと考えておきましょう。

blog.tatsuru.comしたがって、気だけは若くさらに基礎的な教養がどこっかすっぽりと抜けているところがある私なども対象読者ということにしておきます。

 

反知性主義というべきものが社会のあちこちに大きな顔をして跋扈しているという感覚は否定できないものでしょう。

 

しかし、「反知性主義者」はまったく知性のない人たちではないということです。

これは「アメリカの反知性主義」という本を書いたリチャード・ホーフスタッターも指摘しているところで、

指折りの反知性主義者は通常、思想に深くかかわっている人々であり、それもしばしば、陳腐な思想や認知されない思想にとり憑かれている。

ということです。

反知性主義者はしばしば非常な物知りであり、もうすでに社会のすべての問題は解決済みであると考えるがために、物を考えるということを放棄するのだそうです。

 

その次のところで、内田さんは「知性」というものが集団として発動する属性であり個人だけのものではないと言っています。

一人で考えることの多い私には耳が痛い。

 

さらに、反ユダヤ主義などによくみられる陰謀史観というものも反知性主義の典型的な形だとしています。

陰謀史観というものは、世界のあらゆる動きには「張本人」が居ると考えるものです。

彼らの陰謀に従って世界が動いていると見ることは、それが経済や心理や自然科学の影響下にあるからそれを考えようという知性とは反するものなのでしょう。

これも、陰謀史観の大好きな私にとっては耳が痛い。その2。

 

最後の部分は、日本の現状の問題点の解析です。

それは「国民国家のすべての制度の株式会社化」というものが進行しているということです。

企業活動はもちろんのこと、農林水産業や医療、そして教育までもが経済効率だけを基準として判定され、淘汰されるという時代の動きになっています。

そういった組織のトップは民主的な手続きなどは無視して独断専行するのが偉いかのように見なされています。

株式会社であれば、そのような行動で失敗したCEOは首になるだけですが、国家のトップがそのように行動し失敗した国民全体が責任を取らされることになります。

それは、「まだ産まれていない国民」まで拘束することになるのです。

 

内田さんが適切にひかれている例が実に分かり易い。

国政の舵取りに失敗すれば、その責任はその政策決定にまったく関与しなかった世代にまで及ぶ。日本のかつての被侵略国に対する戦争責任は戦後70年を経ても追及が終わらない。「もういい加減にしろ」といくら大声でどなっても、「じゃあ、もう追及するのは止めます」と隣国の人々が言ってくれるということは絶対に起こらない。「日本人は戦争責任への反省がない。決して許すまい」という相手のネガティブな心証形成が強化されるだけである。米軍はこのままおそらく未来永劫に日本の国土に駐留し続け、広大な土地を占有し続けるだろう。北方四島もロシアが占領し続けるだろう。国家の失政の責任は無限責任だからである。「70年も経ったのだから、もういいでしょう」と言っても、相手国が「そうですね」と引き下がることはない。彼らはみな「日本に貸しがある」と思っており、その貸しは「まだ完済されていない」と思っている。彼らがいつ「完済された」と思うようになるのか。それを決めるのは先方であって、われわれではない。無限責任とは「そういうこと」である。

まさにその通り、かつての国の指導者の誤りの責任を今現在の日本の国民、ほとんどが戦争当時には産まれてもいなかったのに、責任は逃れられない。

 

現在の政治の責任も、現在の国民だけでなくこれから成長する子供、これから生まれてくる子供たちも取らされることになるということでしょう。

 

しかし、現在の政治家たちは将来の日本などはまったく考えても居ません。

せいぜい、「現在の政局」そして「次の選挙」だけです。

彼らが「反知性主義者」であるとは思えないんですが。

単なる馬鹿どもです。