八代城は三代あると前に書きましたが、その中でも最古の古麓城を見てきました。
とはいっても、城跡は標高数百mの山の上ですので、ほとんど下からの遠景のみですが。
まずは大体の分布図から。
地形図でないので山の状態はわかりにくいですが、新幹線の線路はほぼトンネル、九州自動車道西回りの道路あたりが山の端になります。城跡はほぼ山の尾根の先端というところです。
その細かい分布はどうなのか、悟真寺というところにあった案内板が分かりやすかったので写真を撮ってきました。
図自体は分かりやすかったのですが、かなり劣化しており写真は少し不鮮明です。
画面奥の最も高い山がおそらく八峰山という600mくらいの山、右の方が八丁山で400mほどの山で、その中腹の尾根筋にいくつか並んで書いてあるのが7つあった砦です。
名和氏の時代に飯盛城・丸山城・鞍掛城・勝尾城・八丁嶽城が築かれ、これを「古麓の五城」と呼んだ。相良氏の時代に新たに鷹峯城・新城が築かれ、合計七城となった。
いずれも標高200~300m程度の高さで、しかも登山道など整備されているとは言えないところのようですので、今回は上まで登るのは断念しました。
案内板右下に赤い鳥居が見えるのが、古麓稲荷神社という神社の参道で、古麓城跡の下に位置するところです。
写真のような急な石段で登るところです。
これ以上上に行くのは諦めて、山を降り球磨川の堤防の方から振り返ってこの辺の山を眺めてみました。
正面の山の一番高いところが八丁山、手前の山の中腹に見える建物が古麓稲荷神社ですので、その少し上の尾根筋の高いところに砦が並んでいたものと思います。
ちょっと下からの写真だけでは不明瞭なので、Google Earthの俯瞰図を利用して同じ付近の図に城跡の位置を入れてみました。上記の案内板の図から類推したもので、正確な位置ではありません。
(Google Earthより引用して加工)
上記wikipediaによれば、建武元年(1334年)に名和長年の息子の義高が八代荘の地頭に任ぜられ、翌年一族の内河義真が地頭代として着任、この地に城を築いたのが始まりだそうです。
その後、南北朝の争いの舞台ともなり、またその後は人吉の相良氏が進出してここを八代支配の本拠として使いました。
またその後さらに薩摩の島津氏も進出してこの辺一帯で争っていたということです。
写真の山麓に広がる町は古麓というのですが、このあたりにも名和氏や相良氏の遺跡が残っているようです。
今はのどかな風景ですが、かつては多くの将兵が生命を掛けて争っていたのでしょう。