内田樹さんの「研究室」というブログの記事を読みながら、興味深いものを紹介していますが、最近のものから段々と遡っていますので、徐々に古くなっていきます。
今回の記事は昨年3月の「役に立つ学問」というものです。
内田さんは哲学がご専門ですので、文句なしに「役に立つ学問」とは正反対であろうと思います。
そのためもあるのか、他人から「あなたのやっている学問は役に立つのか」と問われるのが大嫌いのようです。
しかし、そもそも「学問が役に立つのかどうか」ということから考え直していくと、それは一般に考えられているように社会に広く同意されるような基準があるわけではないということがわかります。
内田さんが挙げておられるように、軍事技術は役に立つのか、原発技術は役に立つのかという例を考えてみればすぐにわかります。
役に立つと思う人には役に立つのですが、それが世界を大きく崩してしまうことにもなりかねず、それを役に立つとは思わない人も多いことでしょう。
また、「英語教育」というものについても論じています。
今の日本では英語というものは文句なしに「役に立つ」と考えられています。
しかし、それが「役に立つ」のはあくまでも英米が連続して世界の覇者となったために他ならず、その覇権もいつまで続くかも分かりません。
さらに、「役に立つ」にしても全ての日本人がベラベラと英語が喋れるようになる必要は全く無く、それが必要な人間の割合も言われているほどには高くないはずです。
文科省が発表した、英語教育の達成目標は、
高校卒業時点での達成として「幅広い話題について抽象的な内容を理解できる、英語話者とある程度流暢にやりとりができる能力を養う
とあるそうです。
まさにお笑いで、次に内田さんが書かれている文章の方が納得できます。
そもそも日本語によってでさえ「幅広い話題について抽象的な内容を理解できる」高校生がどれだけいるのか。2016年の調査によれば、10代の新聞閲読率(閲読とは「一日15分以上、チラシや電子版を含めて新聞を読むことをいう)は4%である。わずか4%である。マスメディアに対する不信感が募っている時代にあって、この数字はこの先さらに減少することはあっても、V字回復するとは思われない。
たしかに高校生たちは終日スマホに見入っているが、それは別に電子版のニュースで国際情勢や国会審議を注視しているわけではないし、ツイッターやラインで政治的意見を交換したり、日本経済のゆくえについての懸念を語り合っているわけでもない。日本語でさえ「幅広い話題について抽象的な内容を理解」することに困難を覚えている人たちが外国語でそれができるはずがない。そんなことは誰でもわかる。ではなぜ、日本語での読解能力・対話能力の低下が深刻な問題となっている状況下で、英語で「幅広い話題について抽象的な内容を理解」するというような目標を掲げることに優先性があり、かつその目標が達成可能だと信じられるのか。そういう計画を立てることのできる人々の頭の中身が私にはどうしても理解できない。
最後に、かつての「役に立つ学問」であったものの現在の惨状も記されています。
内田さんより少し上の世代では「冶金学」(確かに現在では”まともに読める人も少ない”でしょう)が人気でした。
製鉄などが国を引っ張る産業であった時代のことです。
今ではITがその座に着いているようですが、あと10年も経てばどうなるか分かりません。
少し前には、薬学がブームとなり特に女性の進学が増えました。これもあっという間に薬剤師の過剰供給となりました。
内田さんの提起されているこの問題は非常に大きなものと思います。
ノーベル賞受賞に関しても言われることがありますが(それもちょっとどうかと思いますが)現在「役に立つ」と思われる学問だけでは発展性がありません。
かと言って、どの学問が将来役に立つかということは予測不能です。
(そもそもそんな予測ができるわけもありません)
しかし、政府や財界などの要求のままに資金供給に大差をつけるような現状というものが百害あって一利なしというのは間違いないでしょう。
もともと欧米と比べても低い研究教育に対する支出が、さらに一方的な「役に立つ」判定で限られた分野だけに集中させてしまっていては、将来は暗いものでしかありません。