行きつけの市立図書館は田舎の悲しさであまり本の数が多くなく、結構古い本が多いようです。
そんなわけで少し昔の本を借りてきて読むことが多いのですが、その中に小泉内閣時代の評論があり、以前の記憶がよみがえりました。
その独自の政治スタイルで人気もあった反面、非常に批判も多かった小泉元総理ですが、その言葉の中で印象が強かったのは「仮定の話はできない」というフレーズを連発したことでした。イラクへの自衛隊派遣で、質問者がもし・・という質問をするとこう言ってはぐらかしていました。
つい最近、久し振りに将棋を指す機会があってそのことに思い当たりました。
将棋は誰でも先の手を読みます。素人でも数手、プロのトップクラスなら数十手は読みますが、これはすべて「相手がこうくれば・・」という仮定の話から始まっています。
政治でも軍事でも将棋や囲碁と極めて似たところがあります。先の手を読んで何通りも応手を探しておくというのが当然であり、それでなければ主導者は務まりません。
当然、小泉内閣当時もさまざまな局面の相手の出方をすべて拾い出してそれに対する対応を検討していたはずです。したがって、そこで「仮定の話はできない」というのは不親切極まりない対応であったわけで、当時感じていた不快感もそこにあったということになります。
説明責任を欠片も果たしていなかった首相ですが、なぜ人気が高かったのでしょうか。