爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「首相になれなかった男たち」村瀬信一著

政治家を志す者は誰しも夢見るのが「首相」総理大臣になることでしょう。

しかしほとんどその夢がかなうことはありません。

ところが、有力ポストを歴任し実力は認められながらもあと一歩が足らずに首相に届かなかった人たちがいます。

 

この本ではそういった3人、井上馨、床次竹二郎、河野一郎を取り上げ、その詳細な伝記を紹介しています。

たまたま運が無かったように見える場合もありますが、やはりどこかに原因がある場合もあったように見えます。

 

井上馨長州藩の士族に産まれ、百石取というので高位というほどではないものの、他の多くの維新の志士のように下級武士と言うわけではありませんでした。

若い頃より才能を認められ、英国留学も経験し英語を習得します。

しかし反対派に襲われ九死に一生を得ることにもなります。

その後は無事に幕末維新の世をくぐりぬけていきますが、あまりにも頭が良すぎたのか、伊藤博文、山形有朋といった連中が周囲の人を惹きつけていく「人たらし」的な才能に恵まれていたのに対し、井上は近寄りがたく馴染みにくく怖い人物と見られてしまったようです。

外務卿として条約改正の交渉にもあたり多くの難問の解決にも成果を出していき、やがて元勲級の指導者と見られるようになりました。

明治17年に公布された華族令により、井上は伊藤・山県、黒田清隆西郷従道などとともに維新の功臣に与えられた中でも最高位となる伯爵に列せられます。

この時の伯爵8人を「元勲級指導者」と呼びます。

その中で伊藤博文が内閣制度を確立し首相となります。

その後、明治34年に伊藤が首相を辞任した後に、井上に組閣の大命が下ることになりました。

しかし、組閣をしようにも適任者が無く、誘った人には断られと言うことになり、結局は組閣断念せざるを得なくなり、これから井上は首班を選ぶ元老の位置に戻り、桂太郎が組閣することとなりました。

もう少しで手の届いた首相の地位ですが、やはり井上の性格が災いしたようです。

 

床次(とこなみ)竹二郎という人物は今ではほとんど知られていないでしょう。

現にその苗字の読み方も分かりませんでした。

しかし明治中期に官界に入り各地の官吏を転々としたのち、政友会に入党して政界入り、原敬のもとで大臣を務め原の後継者としての地位を築きかけていました。

しかし、原が突然暗殺されて死去したことにより、政友会内はもとより政界全体に激震が走ることで、順調に見えた床次の運命も大きく変わってしまいました。

原の後継者は高橋是清となったのですが、それほど経験もなく政党運営にも慣れていなかった高橋では政局の安定維持は難しく、政友会も分裂してしまうことになります。

その激動の中で、床次も大正13年、グループを引き連れて脱党し、政友本党という政党を結成します。

その後は元の政友会と合同するのか、あるいは野党の憲政会と合同するのかと言った政党間の勢力争いに没頭することになります。

この中で、加藤高明内閣の総辞職の際には次期首班に適当な候補者がなく、床次が比較的有利という見方もあったのですが、実際には加藤高明への大命再降下となってしまい、床次の宿願は果たされませんでした。

その後は政友会への復帰、そしてさらにあちこちへの彷徨となってしまいました。

床次の政治人生は運命に翻弄されたとも言えますが、あまりにも露骨に政権を目指したとみられるような行動と世間に見られたために、国民に不信感を持たれたとも言えます。

これは原敬があまりにも早く世を去ったために、床次が確固たる立場を持つ前に混乱の中に立たされたためでしょうか。

ここで、著者は「もしも原が暗殺されず健在であれば」と仮定しています。

しかし、原自身どうも政治には関心があっても政党運営、とくに後継者育成にはあまり興味を持っていなかったように見えるため、そうであればかえってその後の混乱は必至だったかもしれないとしています。

結局、床次の失敗は「大局観の欠如」であったようです。

 

息子の河野洋平、孫の河野太郎がごく近い時代、そして現在も活躍しており、そのためか井上・床次よりはるかに近い感覚ですが、河野一郎明治38年の生まれ、戦前に政治家となり活躍したのは戦後の時代です。

神奈川の豪農の出身で、嫡子であったために甘やかされて育ちそれが性格に影響してその後の政治家人生にも影を落とすことになります。

早稲田大学に入学し箱根駅伝に参加、主将として優勝に導いたのですが、神奈川の実家近くしか走らずその後政界に進んだ際の選挙区対策であったといううわさも生まれました。

その後朝日新聞の記者となるのですが、政治部で政治家を相手に取材しているうちに政治家になりたくなってしまったようです。

すでに現職の代議士で埋まっていた神奈川の第三区に殴り込み、なんとか滑り込み当選に成功します。

その後、鳩山一郎に出会い鳩山派に所属。

吉田茂とは路線の違いから闘争を繰り広げることになります。

その後は自民党内の実力者として政争を闘っていくのですが、岸信介佐藤栄作とつながった主流派には結局は勝つことができませんでした。

しかし池田隼人内閣で農相・建設相をつとめた時期には派閥の議員数を増やし、池田退陣の時が政権奪取のチャンスだったようです。

ところが病床の池田の裁定は「佐藤推薦」となってしまいました。

他の有力者たちの思惑が交錯するなか、様々な取引が飛び交いこうなったようです。

河野はその佐藤内閣に副総理格の国務大臣としてとどまるのですが、翌年に腹部大動脈瘤出血で急死しました。まだ67歳だったそうです。

 

首相になれなかった彼らは「運がなかった」とも言えるでしょう。

しかし、自らの行動がそれを招いたということもあるようです。

まあ、我らの場合は「町内会役員」や「趣味の会幹事」程度ですが、少しは参考になるのかも。