爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「峠の歴史学」服部英雄著

著者は文部技官・調査官を経て九州大学教授となられた方のようですが、中世史専攻という以上に各地を訪ね歩くことが趣味も兼ねておられるのか、全国各地を踏査されているようです。

歴史的な峠道には「流通」「軍事」「信仰」の各種の役割があったそうですが、それぞれの中からいくつかを例として取り上げています。流通では和田峠、軍事では安房峠鎌倉街道、肥後あぜち越など、信仰では四国遍路道、国東峰入り道などが記されています。

峠というのは今ではかなり低い位置でトンネルを掘るようになってしまい、どこでも旧道と新道の差が大きくなっていますが、組織的な道路管理が曲がりなりにも始まる江戸時代より以前は大雨による崩壊の危険性が高い谷間は通ることができず尾根の高いところを通るようになっていたそうです。
松本から上高地へ入る道は現在は谷沿いに登っていますが、昔は徳本峠を越える最高2300mの道を通っていました。谷道ではどうしても橋を設けざるを得ず、流されてもすぐに修復できるような技術力が備わってからでないと使用することができなかったからだそうで、納得できます。
また、牛を運搬に使う場合、牛は丸木橋は渡ることができずまた板を張った橋でもその途中で隙間や穴が開いていて下が見えるとまったく動かなくなるそうです。そのためかなりの傾斜があったとしても尾根を高く越える道の方が通りやすかったそうです。

天正十二年、越中富山を領有していた佐々成政が加賀の前田と越後の上杉に挟まれ情勢悪化を打開しようと冬季に飛騨を越えて浜松の徳川家康を訪ねたそうです。その際に立山の「ザラ」(またはサラサラ)を越えたという伝説があり、観光でもそのように説明されていますが、冬季の登山も経験豊富な著者はそのコースはまったく不可能と判定し、現在の「ザラ峠」と呼ばれる立山以外にもそのように呼ばれた峠があり、そちらを越えたのだろうと指摘しています。
そのルートは飛騨の神岡から現在の高山市北方を抜け、安房峠の現在のルートよりは南側の古い安房峠を抜けたのだろうということです。その古安房峠を土地の古い呼び方ではザラ峠と呼んでいたということでした。

肥後アゼチ道というのは、人吉盆地から八代に抜けるいくつかの道の中でも山を抜けもっとも早いルートです。現在の国道は球磨川沿いに通っていますが、もちろん昔はまったく通行不可能でした。そのため人吉から北上し肥後峠の近くを通るという最短ルートを通っていたのがアゼチ道ということです。実はこれは現在九州自動車道がトンネルで抜けているルートのほぼ真上に当たります。
その道を通り、人吉の相良氏は八代に進出ししばらくの間は軍事的に保持しました。そのため八代人吉間の通行も頻繁だったそうですが、平時には葦北海岸の佐敷に抜ける道を使うことが多かったようです。
軍事的に意味の大きかったアゼチ道ですが、最後には西南戦争の際に薩軍が引き揚げに通ったそうで、追う官軍との戦闘もあったようです。

国東半島の峰入りの道は昔から行者の修行の一つとして通った道ですが、現在でもその行は行われており、著者はそれに一般人も随行できたときに歩いています。5日間で160km歩くというもので、宗教的な意味も大きいのですが、そのときも数十名の随行者が居たということです。

峠の通行という点を見ていくといろいろと普通の歴史では見えてこないところが明らかになるようです。