爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「議論のウソ」小笠原喜康著

教育学者で日本大学教授という小笠原さんがよく見かける議論での恣意的、無意識両方の欺瞞について書かれたものです。
統計を使ったウソの例としては少年非行についての件が取り上げられています。他の人の著書にもありますが、最近のほんの数年のみを取り扱って、その範囲内で若干増加していることを捉えて少年犯罪急増などと言っている人がいますが、それはまったく不適切ということですが、そのほかにこれらの数は「検挙数」でしかないことや、審判不開始や不処分といった程度を無視した議論など、詳しく見ると穴だらけのようです。

また、権威によりかかったウソとしては例の”ゲーム脳”を取り上げていますが、これは書いた本人が一応脳科学者と自称して活動しているのでそういった権威の利用と言うのはすべての事情を知った上で行っているのでさらに問題は深いようです。

時間が作るウソということでは、携帯電話などの電車や病院などでの使用注意についての情勢ですが、初期の携帯電話は確かに電波の漏れが大きく、また心臓ペースメーカーや病院の医療機器も電波による誤動作の可能性もあったものが、双方の機器メーカーの対応でそれらの恐れは極めて低くなってきたようです。しかし、そういった努力の結果をはっきりと評価せず、また一般への周知もないために以前の知識のままの取り扱い規定を守っているため、肝心のペースメーカー使用者本人が不必要な危惧を抱いたままになっており、非常に気の毒な状況になっているとのことです。
これは、私の見るところ「一度決めた規則はなるべく変えない」という官僚的対応そのものと思いますがいかがでしょうか。とくに基準を緩める方向というのはほとんどやりたがらないというのがその特質です。

ムード先行のウソということで、ゆとり教育をめぐる学力論争があります。本当に必要な学力とは何かと言う議論がないまま、たまたま出てきたOECD学力調査なるものの結果の数字を見て、ゆとり教育というものに皆が持っていた不安感が噴出してしまった。ということのようです。
その学力調査の中味もほとんど見られていないようですが、最近のものは発表されていないものの始めの頃の問題を見ると日本で普通に考えられるような「学力調査」のイメージとは全く異なるもののようで、そのようなテストに対する教育というものは、ゆとり教育でも、それより前の教育でも全く日本では実施されていないのは明らかだと言う小笠原先生の意見です。

この辺は著者の専門の教育論のところですから、確かな持論なのでしょうが、以前の「詰め込み教育」というのは日本が産業社会として工場で世界一の製品を作ると言う意味では適していたということです。しかし、産業社会がすでに崩れてしまった現在ではどのような資質が必要か、先行するアメリカがITで様々なアイデアを出せる人材を輩出しているように、創造力がなければ仕方がないのに、それを少しでもつけようとしたゆとり教育を廃して何をしようとしているのか。全くの方向違いということです。この辺のところはどのような方向性が良いのかという点については難しいのでしょうが、状況把握については著者に全く同意します。