爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「お家相続 大名家の苦闘」大森映子著

歴史学者で日本近世史が専門の湘南国際女子短期大学教授の大森さんが豊富な資料研究の成果のうち特に大名家の相続について解き明かしたものです。

大名の改易は江戸時代初期には頻発しましたが、その結果浪人が増加して社会不安が増したためその後は比較的少なくなりました。しかし、時折見られたものは大名自身の不行跡もありますが、ほとんどは嫡子が不在のためということが理由となります。
しかし、江戸時代を通じて実子で相続を続けたという家はほとんど無く多くの場合は養子を得ての相続だったようです。
とはいっても、時代が時代ですので若くして急逝という事態が頻発していましたので、実子ができるのを待っているうちに当主が急死ということはままあったようで、その場合は「急養子」(末期養子)という当主死亡直前の届出により養子に相続させるということが行われました。死亡直前といっても実際は当主急死のあとその事実を隠して急養子願いを幕府に届け、その認可を待って死亡届を出すということが行われたということです。

しかし、その場合でも当主が17歳以下の場合は養子を取るということができないという幕府の内規があったようで、それに対応するための諸大名の苦闘がいくつもの例で説明されています。

もともと、大名の男子は幕府に届け出るのが筋ですが、幼時に死亡するということが多かったのでほとんど為されず、ある程度まで無事成長してから「丈夫届け」というものを提出して幕府に認めさせるということが多く行われました。しかし、その届けをした直後に急逝ということもままあったようで、さらに大名家の苦闘は続くことになります。
岡山藩二代目池田綱政は実子が40人以上生まれたということですが、そのうち成年まで達したのは3分の1のみでほとんどが幼時に死亡しています。嫡子として届け出た輝伊も若死にし、その次に後継者とした吉政も死んでしまい綱政は58歳にして再び後継者選びの必要性が出てしまったということです。

大名家といえば江戸時代では庶民よりははるかに生活程度は良かったはずですが、それでもこれほど若年死亡が多かったというのは改めて大変な事情だったということを考えさせられます。