爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「戦場の精神史 武士道という幻影」佐伯真一著

青山学院大学教授で中世文学が専門と言う佐伯さんが武士道というものについてどのような認識の変遷があったかを説明しています。
最初に、平家物語にある、越中前司の最後と言う場面を引いています。一の谷の合戦で戦いの帰趨はほぼ決して平家の負けとなった時に、越中の前の国司平盛俊は名乗りもしないまま猪俣則綱という名も無い武士と組み合い勝ちそうになりますが、猪俣の口車に乗り争いをやめて世間話を始めてしまい、その隙をつかれて猪俣に討たれます。このだまし討ちについて、必ずしも武士道に反すると言う批判は同時代のみならず後の時代にもほとんどなかったというのが歴史的な事実だそうです。
そもそも合戦のルールというものが本当にあったのかどうか、昔はあったけれどだんだんと失われたのか、そのようなことはどうやらほとんど存在しなかったようです。

古事記にあるようにヤマトタケル熊襲征伐など、だまし討ちばかりのようです。他の蛮族征伐というものを扱った話でもそれが多く、そのような知恵を働かせて討つと言うことのほうが賞賛されているかのようです。
その後、平安時代に武士と言うものが発生し、とくに東国などでは戦いが続くようになりますが、そのような戦のなかではある程度の合戦のルールができていたようです。しかし、後世に言われているような、名乗りを上げた武士同士が一騎打ちをするのがルールというようなものではなかったということです。

それから源平、鎌倉、室町といろいろな戦争が続くわけですが、どうやら「だまし討ちに遭わない」ことも立派な武士であるという理由の一つであり、だまし討ちをすることに対しては特に道徳的な非難というものがあるわけではなかったようです。ただし、あくまでも敵に対しての策略であり、味方に対しては誠実であるというのは当然の道徳だったようです。

江戸時代になり、武士がほとんど戦争をしなくなり単なる行政担当者となるにいたり、武士道に対する意味づけが異なってきます。「葉隠」が武士道を書いたというように言われますが、葉隠は主人に使われるものを描いただけで、戦争の場で主体的に戦うという武士を想定したものではありません。

また、「武士道」と言う言葉を用いた新渡戸稲造はもともと武士も武道もほとんど知らず、単に英米人に日本にも西洋騎士道と同じようなものがあると言うことを紹介するだけを目的として書いただけで、日本の武士道というものについてまったく考察をしたわけではないようです。
しかし、新渡戸だけでなくほかの書物にも見られるように、「武士道」というものを喧伝していったのは明治になって西洋からの文化が奔流のように流入してきた中でなんとか日本独自の文化を守ろうとする人々がその拠り所として取上げてきたというものだそうです。

そのようなわけで、武士道と言う幻想を持ちながら昔の戦争を描いた劇や小説を見ているとかなり異なるものを見ることになるかも知れません。