爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「東日本大震災を分析する 1地震・津波のメカニズムと被害の実態」平川新、今村文彦編著

2007年に、当時東北大学東北アジア研究センター長であった編者の一人、平川さんは、宮城県沖地震の発生が間近に迫っていると考え、地震津波の専門家だけでなく文系研究者も含めて地震災害全般についての研究を急ぐ必要があると考え、賛同者を得て「東北大学防災科学研究拠点」を立ち上げました。

2008年にはこれに対して文科省からも大型プロジェクトとしての認可を得て、取り組んでいたのですが、ちょうどその5ヶ年計画が動き出した直後に、2011年3月11日の東日本大震災が起きたのでした。

 

その後、それまで参加していなかった研究者も多数参加して、震災の被害の把握とその解析に東北大学の総力を上げて当たるということになり、40人の研究者が参加するということになりました。

震災の1ヶ月後から4回の報告会を開催したのですが、それを書籍としてまとめるということになりました。

 

大きく分けて「地震津波のメカニズム」、「被害の実態と要因」。「ひと、生命、こころ」、「防災と復興のまちづくり」、「震災の歴史と記録」の5部からなります。

非常に多くの分野から見ていますので、まとまりというものには欠けますが、地震津波が起き、それで多くの被害者が生じ、さらに影響が拡大していくという中で、どのようなことが起きていたのかを大きく掴むという意味は大きいものでしょう。

 

東北地方太平洋沖地震地震としてはこの名称です)がどうしてこのような大きな規模になったのか、そこも詳しく描かれています。

東北地方の陸側は北米プレートに乗っており、そこに太平洋プレートが潜り込むように接しています。

その動きは年に約8cmであり、それが蓄積してすべることで地震が発生します。

プレートの接触面の固着部をアスペリティと言いますが、これが摩擦が少なく常に滑っていれば地震とはならないのですが、滑りづらく限界まで固着していると大きな地震となります。

また、海底の動きを観測するために海底水圧計という観測装置を設置していたため、今回の地震津波発生時にも貴重なデータが得られました。

すると、地震発生の2日前から海底の隆起がわずかながら見られ、これが「余効スベリ」と見られます。

前震と見られる地震の結果、余効すべりが発生し、それが引き金となって本震につながったということが推測できます。

なお、地震時には海底面と海面がともに変動しますが、これが150kmを越える広大な範囲で数mの高さで持ち上がったと見られることから、この莫大な海水がそのまま津波として周囲に押し寄せたことになります。

そのために、平野の奥深くまで津波として海水が侵入するということになりました。

 

なお、プレート移動量が年8cmとして、この地域のプレート間地震の発生年とその間の蓄積量を見ると、今回の歪の解放量があまりにも多すぎることが分かります。

そこから推論できるのは、この数回の地震では歪みがすべて解放されたのではなく、一部だけが動き、かなりの部分が残っていたようです。

その非解放の歪み量が蓄積し、それまで含めて今回の地震で一気に解放されたために、津波の高さが大きくなったと考えられます。

 

被害の実態の章では、建物被害、ダムの決壊、交通障害、そして原発事故まで多くの事例が扱われています。

震災直後の研究者たちの熱気のようなものも伝わってきます。

 

東日本大震災を分析する1 -地震・津波のメカニズムと被害の実態-

東日本大震災を分析する1 -地震・津波のメカニズムと被害の実態-

 

 

「確率で読み解く日常の不思議」ポール・ナーイン著

日常生活で出会ういろいろな事も、確率を考えればそれがどのようになるかということがより正確に判定できるかもしれません。

 

そのような観点から、次のような事柄を確率論で推計してみせるという本です。

ただし、その結論として出てくるのは数式であり、それを計算するコンピュータシミュレーションの例が付けられ、さらに理論的解析までされているのですが、相当難しい内容となっており、大学で理系の数学を学んだ人でなければ分からないかもしれません。

(その人たちでも困難?)

 

ニュートンが好んだ「ギャンブル」の問題

・校正の2つの方法

・ダーツと弾道ミサイル

・血液検査

・プラムプディング

・10年経っても生きているだろうか?

 

これらのどこが確率論なのか、想像もできないかもしれませんが、本当に計算されています。

 

本当はその数式を例示したいところですが、積分記号やら無限への収束やらが満載ですので、面倒なのでやめておきます。

 

まあ直感で出てきた数字と変わらないものも、ぜんぜん違うものもあるかなといったところです。

 

確率で読み解く日常の不思議: あなたが10年後に生きている可能性は?

確率で読み解く日常の不思議: あなたが10年後に生きている可能性は?

 

 

「差別はいつ悪質になるのか」デボラ・ヘルマン著

「差別」という言葉には「悪い」という価値判断が伴っているのは、日本語でも英語でも同様なのですが、ここでわざわざ「悪質になる」としたのは、さほど悪くない差別もあるということで、それが「悪質」とみなされるようになるにはどういう背景があるのかということを論じています。

 

なお、翻訳者の池田喬・堀田義太郎さんが訳者あとがきで書いているように、微妙な問題が多くて訳語をどうするかはかなり悩んだようです。

discrimination には「差別」という言葉を当てたのですが、類似した表現でも、distinction には「区別」、differentiation には「差異化」という言葉を当てました。

また、表題にもなっている「悪質」はwrong ですが、wrongful は不当、不正としました。

さらに、本書の鍵となる概念である demean は「貶価」としました。

これはあまり使われない言葉ですが、他者の道徳的な価値を貶めるという意味を端的に表すために使ったということです。

 

差別というものが「悪質かどうか」について、実例、ありえない例、などを数々あげて考えさせます。

ある会社で、名字がAで始まる候補者は雇わないことにした。

テヘランのある大学で、学力ではなくイスラム教に根ざした政治活動歴によって入学者を選抜した。

ネルソン・マンデラが服役していた刑務所で、黒人受刑者は短パンを履くことを強制され、白人受刑者は長ズボンをはくことができた。

ネバダ州のあるカジノ運営会社で、従業員の女性は必ず化粧をすることとし、男性は化粧をすることを禁止した。

デラウェア州のある老人ホームで、入居者の大部分が女性であったので入浴やトイレなどを介助する職員に女性しか雇わないこととした。

 

これらの例のうち、実例に関しては訴訟となって裁判所で判決が出たものもあります。

 

こういった「差別」(区別と呼ぶべきものもあるようですが)は、不合理ではあっても悪質とは言えないものもあります。

Aのつく求職者は雇わないなどというのは全くの不合理ですが、それは悪質とは言えません。

その背後には女性差別や人種差別といった歴史がないからです。

 

しかし、黒人には短パンをはかせるとか、女性には化粧を強制するといったことは、これまでの差別の歴史を振り返って対象者を貶価、すなわちわざと貶めるということをしているので悪質ということです。

 

他にも非常に複雑で厳密な議論が続いていきます。

差別は日本社会でも無縁ではありませんが、ここまで厳しい議論をした人は居ないかもしれません。

まあ、差別意識の塊のような人でも自分では差別していないと思っているような社会ですから。

少しは、しっかりと勉強する必要があるのかもしれません。

 ただし、テキストはもう少し易しいものが適当でしょう。

差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)

差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)

 

 

 

「人はなぜ集団になると怠けるのか 『社会的手抜き』の心理学」釘原直樹著

世の中の仕事や作業というものは、ほとんどが多くの人との共同作業です。

しかし、そこでは1+1=2となることはほとんど無く、大抵の場合はかなり効率が落ちるようです。

そこには「社会的手抜き」という現象が生じます。

様々な要因が関与しますが、やはり自分ばかり頑張るのは損だという意識が現れるようです。

 

なお、著者の釘原さんは社会心理学教育心理学の研究者ですが、この「社会的手抜き」についての執筆を依頼されたものの、心理学界ではこのテーマについてのまとまった学説がないということで、書き上げるには相当苦労されたようです。

その割に、出来上がった本は当たり前のことばかりだったと正直に?あとがきに書かれていました。

 

祭の神輿を担ぐ時、10人居ても力を出しているのは2人、8人はいい加減に担ぎ、2人はぶら下がっているという話もあります。

共同作業で皆が力を出すはずであっても、自分の努力が報われそうもないとか、誰も見ていないから分からないとか、目立たないからサボっても怒られないとか、様々な要因が重なり「手を抜く」ということは、「誰でも覚えがある」はずです。

 

共同作業といっても、2人なら目立ちやすいので手抜きもしにくいでしょうが、5人、10人と増えていくと、「自分がサボっても分からない」ということになり、手抜きをしやすくなります。

 

このような心理的な動きについては、内外問わずにある程度の心理学的実験のデータがかなりあるようで、その機構も分かっているものが多いようです。

社会的手抜きがなぜ発生するか、そこには「個人の努力が評価されない場合」「努力の必要がない場合」「他者に同調する場合」「緊張感の低下」「注意の拡散」といった要因が左右します。

 

ただし、こういった要因は個人によって大差があり、あまり手抜きをしない人、すぐに手抜きする人ということはあるようです。

また、集団の特質によっても異なり、たとえば欧米は個人主義、東洋は集団主義なので東洋では社会的手抜きは少ないのではということもあるようですが、これについては実験結果が様々なようです。

 

大都会の人は冷たいとよく言われますが、これも社会的手抜きと同様のメカニズムによります。

小さい集団では、個人の責任が目立つ場合も多く、だからというわけでもないのでしょうが、困っている人がいれば助けるという行動も多いのですが、都会のように誰に責任があるのかも分からないところでは、他人が困っていても手を出さないということになるようです。

 

組織になった時の無責任という点では、旧日本帝国の軍部の体制はよく例に引かれて批判されますが、太平洋戦争開戦当時のアメリカ軍もそのほとんどが「絶対に日本軍はアメリカを襲わない」と思い込んでおり、ハワイ急襲の危険性が繰り返し伝えられても無視してしまい、真珠湾攻撃前夜も軍高官たちがパーティーをしてしまったということもありました。

どこでもそういった無責任体制に陥ることはあるということなのでしょう。

 

「社会的手抜き」を防ぐためには、という章もありましたが、まあそれは無理でしょう。

そんなに簡単に人間の本性は変えられないと思います。

 

 

「データ栄養学のすすめ」佐々木敏著

栄養疫学というものを広めようと奮闘されている、東京大学教授の佐々木敏さんが昨年出版された本です。

実は、出版直後から大きな話題となっており、特に栄養士さんなどの間では今でも多くのツイッターが書かれています。

 

私もできるだけ早く読んでみたいと思っていたのですが、なかなか巡り会えずに今になってしまいました。

 

「食と健康の情報」というものは、社会に溢れているように見えます。

しかし、その多くは十分な科学的事実確認すらないままに流されています。

「科学的なデータ」とは、収集、整理、分析、確認までが科学的な方法で行なわれたものを指します。これを「科学的根拠(サイエンティフィック・エビデンス)」と呼びます。

著者がこの本の題名を「データ栄養学」としたのは、そこに意味があります。

 

本書では、そういった観点から今多くの栄養と健康に関する話があふれているような、「ビタミン」「ミネラル」「炭水化物・糖」についての研究状況などを描いていきます。

それを見ていくと、多くの人に常識のように語られていることが、意外にはっきりとした根拠が無いことに驚くほどです。

 

「野菜を一日350g以上摂る」ということは、厚生労働省が提唱している数字です。

しかし、その根拠が明確に述べられているものは見当たりません。

野菜と果物の摂取量と総死亡率の関係をまとめた研究は、欧米諸国で実施されたものが公表されています。

日本では実施されたものはないようです。

それらの研究結果をまとめたものを見ると、「果物と野菜を合わせて、1日に385gほど摂取する」のが一番良いようです。

それでは、「野菜だけ」の摂取量と総死亡率の関係を調査した研究はあるのかといえば、どうもぴったりの結果が出たものはないようです。

ヨーロッパでは「果物と野菜」の合計摂取量で研究をしているのに、日本が「野菜だけ」としているのは日本の特殊事情にあるようです。

実は、現状の摂取量でみて日本はすでに最もたくさん摂っているようです。

個人差が大きいこともあるため、野菜を十分に摂取している人がこれ以上多く食べたところであまり効果は期待できないようです。

それよりも、ほとんど野菜を食べていない人に少しでも食べさせる効果というものはあるようなので、それを目指すということでしょう。

 

日本人では胃ガンにかかる人が特に多いという状況がまだ続いていますが、ピロリ菌の感染者が胃ガンになりやすいということはあります。

しかし、どうやら胃ガン患者のうちピロリ菌を原因として発症した割合はせいぜい30%程度のようです。

遺伝の影響も考えられますが、アメリカに移住した日系人の胃ガン発症の割合は他の白人と大して変わりなく、日本人に胃ガンになりやすい遺伝傾向があるとは言えません。

それよりも、食塩の多い食事習慣が関わっているようです。

食塩は発ガン性物質ではありませんが、どうやらそれが発がんに関わるメカニズムがあるようです。

ただし、そのようなメカニズムをはっきりさせなければ胃ガン患者を減らせないわけではありません。

疫学として、食塩摂取量と胃ガン発症率に間違いなく関連があるのなら、その理由はともかくとして、とにかく食塩を減らせば良いだけです。

実は、胃ガンの発症率と「家庭用電気冷蔵庫の普及率」が密接に関係していることは分かっています。

どうやら、食塩濃度が低くても食品の保存ができるようになることで、食事のときに摂取する食塩量が減ることが寄与したようです。

つまり、「胃ガンの減少に最も貢献した職業は、医者ではなく電気屋さんかもしれません」

 

食塩を減らす「減塩」が必要だということは、いろいろな面から言えることのようです。

しかし、そのような知識を教え込めば徐々にでも食塩摂取量が減らせるでしょうか。

面白い研究結果があります。

女性の栄養士と、一般女性で食塩摂取量に違いがあるかどうかを見たものです。

これは、24時間蓄尿を行ないそれを分析して塩分量を測定するという、非常に精密な測定方法を使って行なわれました。

(自己申告の摂取量調査では、どうしても実際の摂取量より低く出てしまいます。特に、栄養士のような専門家を相手にするとその誤差が大きくなるようです)

その結果、減塩の必要性が知識として十分にあるはずの女性栄養士も、ほとんど知識のない一般女性も、食塩摂取量にはほとんど差がないという結果が出てしまいました。

 

なお、「減塩食」が普及しないのは味が薄くて美味しく感じられないからだと、一般的には考えられています。

しかし、これも実際に比較してみるとそこまで差がない例も多いとか。

減塩をしようという、意識が足りないだけなのかもしれません。

 

緑茶のカテキンは、体重を落とす効果があるかどうか、1992年にイギリスで世界各国の研究結果を検討して調べるという、コクラン共同研究というプロジェクトが行なわれました。

その当時、合計14の研究が世界各国で行なわれており、そのうち8つの研究が日本で行なわれたものでした。

しかし、コクランプロジェクトの集計には日本の研究はすべて除外され、他の6つの研究を総合して、「カテキンの減量効果はあったとしてもごく小さい」というものになったそうです。

日本の研究というものが、科学的な根拠に乏しいものであったというのが最大の問題点だったようです。

 

非常に興味深い内容が多いのですが、やはりある程度専門知識のある人でなければ読みづらいものかもしれません。

 

佐々木敏のデータ栄養学のすすめ

佐々木敏のデータ栄養学のすすめ

 

 

 

 

「発掘された聖書」I.フィンケルシュタイン、N.A.シルバーマン著

以前にもその名もずばり「聖書考古学」という、日本人の研究者の方が書かれた本を読みました。

sohujojo.hatenablog.com

今度は、本場テル・アビブ大学の考古学者フィンケルシュタインさん等の書いたものです。

 

考古学というものが発達してきた時代の始めの頃から、聖書に書かれたものが考古学で確かめられるかどうかということは、ユダヤ教徒ばかりでなくキリスト教徒にとっても関心事であったようです。

しかし、その始めの頃には聖書に書かれていることには間違いがないと言う信念から、それに考古学的発掘資料を合わせて解釈するということが普通でした。

 

それに対し、近年の研究者たちは考古学の資料を厳密に調査し解釈するということをしているために、宗教学者や考古学者の一部からは批判されている場合もあるようです。

「聖書ミニマリスト」と呼んでその立場を中傷しているということです。

 

そのためか、本書の記述も非常に慎重に、配慮をしながら書かれているように感じます。

その点、上記の長谷川さんの記述などは日本から見るという気楽さか、遠慮なく書かれているようです。

本書の場合は、そのためか最初はどういった立場で書かれているのかはっきりとは分からず、もどかしく感じました。

巻末には、これまでの聖書考古学の流れが付録として掲載されていました。

こちらを最初に読んでからの方が分かりやすかったかもしれません。

 

それでも読みながら徐々に明らかになってきたのは、「聖書の記述にはほとんど考古学的裏付けは取れない」ということを著者は言っているということでした。

「族長の時代」すなわちアブラハムに始まる遊牧民であった当時のユダヤ民族に関して考古学的資料が見つかるとは考えにくいものです。

しかし、それに当たる年代には実はカナンの地には別の民族の都市文化がすでに栄えており、それに出会わずに遊牧を続けているとする聖書の記述は不可能でした。

 

出エジプト」が豊富なエジプト側の資料にまったく触れられていないということは以前から分かっていたことですが、シナイ半島に入ってから数十年の間放浪を続けたということもその証拠となる考古学的発見は皆無です。

その後、新しい時代になってからのエジプトとの関係から作り出されたものでしょう。

 

モーセの後継者ヨシュアに率いられたユダ民族が、かつてアブラハム以下の族長が住んでいた(これも幻想ですが)カナンの地のエリコなどの都市を攻め滅ぼしていくという記述も聖書の中で鮮明な印象を与えられるものですが、その該当する時代の遺跡というものはまったく見つかっていません。

かえって、それを遡る時代の遺跡とそれが破壊された跡も発見されたのですが、それはイスラエルとは関係のない時代とみなされました。

 

考古学的に確かなところでは、前1200年頃にカナンの地に急激な人口増加が見られるということです。

オリーブとブドウを栽培する農業が発展し、その中心の町が都市化していきました。

それを作り出した人々は、他の地域から侵入してきたのではなさそうです。

つまり、カナンの人々がそのまま発展してイスラエルとなったと見られます。

 

その後、ダビデとソロモンの時代にイスラエルが栄華を極めるというのが聖書の筋書きですが、これも考古学的発見では何も裏付けする資料は出てきません。

ダビデもソロモンも実在しなかったのではないかと考える人も出てきたのですが、そこでわずかに「ダビデ」と書かれた考古学史料が発掘され、ダビデという王家があったということは確かめられました。

ただし、それがアッシリアとエジプトの間をすべて統治した王朝であったとは言えないようです。

 

ユダの王国は、紀元前9世紀頃には東のアッシリアの進出により大きく圧迫されます。

アッシリアに従うか、反抗するのか、ユダの内部は争うようになります。

その動きの中で、神「ヤハウェ」に絶対的に従うという人々が出てきます。

彼らがアッシリア服従派と競う中で作り出していったのが聖書に書かれているユダヤ民族の伝説であったようです。

したがって、当時の知識で昔の伝承のように作り上げていったので、歴史的事実との矛盾が多くなりました。

 

その後、アッシリアは衰退したものの、エジプトの影響が強まり、さらにその後はバビロニアが圧倒してきます。

ユダヤとしての独立は失われますが、それがかえって一つの信仰を作り上げたということのようです。

 

現実にもまだ大きな力を持つ、ユダヤ教キリスト教の宗教者たちには届かない話かもしれませんが、かなり分かりやすくなった歴史観のようです。

 

発掘された聖書―最新の考古学が明かす聖書の真実

発掘された聖書―最新の考古学が明かす聖書の真実

 

 

 

聖書の扱っている事項は、大きくまとめて「族長の時代」「出エジプト」「カナンの征服」「ダビデ、ソロモンの栄華」「

「合唱指導テクニック 基礎から実践まで」清水敬一著

私の表向きの趣味はコーラスであるということは、前にも書いたことがありますが、それに少し有益なものかもしれない本を読みました。

 

もちろん、そちらの方では指導の先生の教えるように歌っているだけで、この本を読んで合唱指導者の地位を狙っているなどということは決してありません。

とはいえ、指導テクニックを知っておくことは指導される側にとっても無駄にはならないようです。

 

その点、この本の著者の清水さんは多くの合唱団で指導に当たっているという方ですので、色々とためになる話がありそうです。

 

まず、歌う姿勢が大切というのは当たり前すぎるのですが、おろそかにしていることでもあります。

姿勢を正し、準備運動を十分にやってから声を出さねば。

 

発声練習も大切ということも分かってはいるのですが。どうしても音程を正しく取るのに精一杯でなかなか声の質にまでは注意が回りません。

 

声の共鳴の仕方、母音の揃え方といったところは、なかなか素人では難しい話のようです。

写真で口の形から口腔内の様子まで説明されていますが、やはりそれだけでは分かりにくいものでした。

 

日本語の歌を歌う時、どうやって発音するかも簡単な話ではないようです。

「ん」をどう発音するか。これも代表的なものだけで3種類あるそうです。

「n」「m」「(英語のingの発音)」ですが、それによって口の形と舌の位置が異なるそうです。

また、これも実際に歌っている時には迷うことが多いのですが、「子音+えい」「子音+おう」も綴りと実際の発音が異なるので揃える必要があるようです。

 

音楽の調(ハ長調とかト長調とかです)によって性格が違うのかどうか、これは基本的には「違わない」というのが模範解答なのですが、「ある場合もある」そうです。

それは、特に管楽器の場合に多いそうですが、楽器の都合で響きやすい音と言うものが決まっており、それを使った調では明るい音になり、そこからずれた調ではくすんだ音に聞こえるということがあるようです。

こういったところは、演奏の経験な著者ならではの解説でした。

 

巻末に、楽曲例として、ラッススの「Matona mia cara」が使われていました。

これは、私が最初に合唱を始めた若い頃に歌った曲ですので、懐かしく感じました。

とはいえ、この本での解説は非常に詳しく丁寧なもので、かつての闇雲に歌ったものとは別の曲のように感じます。

歌詞が訛ったようなイタリア語だったのですが、これは「イタリアにいるフランス軍に属するドイツ人傭兵が話すような言葉」だったということです。

このような曲は他にもいくつもあり、「テデスカ」(ドイツ風に)と呼ばれる一群のものだそうです。

ドイツの片田舎から先進国イタリアに傭兵としてやってきて、きれいなお嬢さんに一目惚れして歌いかけるというイメージでした。

 

というような本を読んで、これだけでちょっと歌がうまくなったような気がしているのでした。

 

合唱指導テクニック 基礎から実践まで

合唱指導テクニック 基礎から実践まで