爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

週刊新潮が低レベルの煽り記事を連載 FOOCOM.NETで瀬古博子さんが指摘

週刊新潮で「食べてはいけない『国産食品』実名リスト」という記事が2週連続で掲載されているそうです。

 

しかし、その内容は低レベルで、摂取量と危険性との関係も無視し、公的機関の公開データも都合の良いところだけを切り取って使うというもので、実害も無いところを盛んに煽ろうとしているだけというものです。

 

これについて、FOOCOM.NETの専門家コラムで瀬古博子さんが適切な解説をかいています。

www.foocom.net

www.foocom.net

いずれも、一応専門家の出したデータや解説を引用する形にしていますが、それが恣意的に切り取られ、都合の悪いところは無視というものですので、結論がまったく逆というものになっています。

 

例えば、ハムの発色剤に使われる亜硝酸ナトリウムと、保存料のソルビン酸が反応して発ガン性物質が生成するという問題があり、それについて食品安全委員会が出した文章を引用しているのですが、元の文章では「発ガン性物質が生成される」という内容の文の後に「しかしながら、この結果は特別なin vitroにおける実験条件下で得られたもので、ソルビン酸亜硝酸ナトリウムが食品中に共存した場合に実際に形成されることを意味するものではないとされている。」とあるのは無視しているために、印象がまったく逆にされています。

 

また、安全量についても少しでもあれば危険と言わんばかりの書き方で、商品名の実名を挙げての記述となっています。

 

第2弾の記事も同工異曲で、今度は農水省のホームページから引っ張ってきた文章で、硝酸塩が人体の中で亜硝酸塩に変換されるということを示し、それがニトロソ化合物と反応して発がん物質になると言って、保存料の硝酸塩が危険としています。

 

しかし、問題の農水省ホームページでは、その文章に続けて「硝酸塩の摂取と発がんリスクの間に関係があるという証拠にはならない」と結ばれているのに、それについては無視です。

なお、この文章は農水省では「野菜に含まれる硝酸塩についての情報」というところにあります。

つまり、「食品添加物」についての情報ですら無いということです。

 

週刊新潮は同類の週刊誌である週刊文春の連続スクープによる話題集めで、はるかに水を開けられてしまって焦りがあるのでしょうか。

それにしても、このような低俗な記事で人目を集めようというのはちょっといただけません。

まあ、こんな記事を信じて知ったかぶりをしたら、かえって大恥をかくということだけ覚えておいてほしいものです。

 

「自治体ナンバー2の役割」田村秀著

市町村などの自治体のナンバー1は市長等ですが、ナンバー2は「助役」ということです。

この助役については、地方分権を進めるという点から見て、地方自治の変革を目指す中で現状がどのような役割であり、今後どのようにするべきかを検討する必要があります。

そこで、地方自治の研究をしてきた著者が、アメリカ、イギリスの同様な立場の人々との比較をしながら調査結果をまとめています。

 

地方自治制度が整備されていく中で、助役という名称が初めて登場したのは、1888年の市町村制の制定時でした。

その後、1911年には助役を必ず置かねばならないといった改正も加えられ、それまでの市会による選挙によって選任される方式から、市長が推薦し市会が選任する方法に改められました。

そして、1947年に地方自治法施行された時に現在の方式が確立しました。

選任も、市長が選任し議会の同意を得ると言う方式に確定しました。

 

アメリカでは自治体のナンバー2は「シティマネージャー」と呼ばれる職ですが、各地の自治体により様々な制度があり、必ずしも市長とシティーマネージャが並立するとも限らないようです。

しかし、多くの自治体では議会によって選任された行政の専門家であり行政府の実質的な長として政策を遂行する者とされています。

 

イギリスではチーフエグゼクティブと呼ばれる職がそれに当たります。

公選される首長とは別に、地方自治体の事務職員のトップとしての役割を果たします。

 

日本の市町村の助役は、出身にもほぼ似通ったものがあるようです。

もっとも多いのはその市町村の職員であったものが、そのまま助役に選任されるという場合ですが、それ以外にも所属する県の職員、国の職員、市町村議会議員等から助役になる場合もあります。

また、稀ですが民間出身者もなることがあります。

 

この点、米英の場合はシティマネージャー、チーフエグゼクティブともに専門職として確立しており、公募で選ばれるためにいくつかの自治体を渡り歩くと言う例も見られるようですが、日本の場合はそういった例はありません。

 

なお、女性の進出は助役の場合はあまり進んでいないようです。

米英も日本と比べれば女性比率が高いものの、他の職種や民間と比べればかなり男性に偏ったものになるようです。

 

平均年齢も日本はかなり高く、60に近いものです。これは、市町村職員などを長く経験した後に就任するために年齢があがるようです。米英では始めから専門職として就任するためにかなり若い人も見られます。

 

 日本では市長などの首長は公選制ですので、様々な経歴の持ち主がいます。

以前は役所でずっと働き、管理職も経験してから市長選に出馬し当選という人が多かったのですが、最近ではまったく役所に縁のない人が直接首長として当選して入ってくる場合も多いようです。

そのような場合に、ほとんど行政経験のない首長を補佐する助役と言う役割は非常に重要なものとなります。

民間から首長に当選し、助役も仲間を指名するという場合もありますが、多いのは役所の中から行政に通じた人を指名すると言う場合で、その際は首長との関係も良好で役所や議会とも通じ合える間柄ということが多いようです。

 

最近は地方分権の方向で進もうという風潮があり、その中で首長の存在も変わってきており、助役も変わらざるを得ません。

現行法制では首長は公選制であり、同様に公選された議会との二元的代表制を取っていますが、米英では必ずしもそうなっているわけではありません。

議会のみが公選であり、首長は議会が選挙するという制度もあるわけで、その検討も必要かと言われています。

ただし、いくら米英の制度が魅力的であってもそれをそのまま日本に当てはめるわけにも行きません。

慎重な検討が必要となるところです。

助役制度も、「副市長制度」に変えようという動きもあるようですが、どうでしょうか。

 

地方自治の実態など、これまではほとんど興味もなかったのですが、読んでみるといろいろな問題点もあり、可能性も多い分野かと感じました。

 

自治体ナンバー2の役割―日米英の比較から

自治体ナンバー2の役割―日米英の比較から

 

 

議員に選挙制度を決めさせるな。またまたとんでもない議員案

参議院選挙制度について、自民党参議院議員団が案をまとめたそうです。

www.nikkei.com

島根と鳥取で一人といった「合区」に反対して、この前は憲法も変えてしまえと言っていたのに、それは諦めたもののなんとか議員を出せるようにという、猿知恵丸出しの「改革案」です。

 

1票当たりの有権者数の格差は問題ということは最低限分かっているようですが、その対策としては、埼玉選挙区で2名増やすだけ。

それで「3倍以下」は確保できるからOK。

あとは比例代表の特定枠を設けて候補者を出せない県から優先的に出すとか。

それで議員定数は6増やすそうです。

 

前から主張しているように、議員本人に彼らを選ぶ選挙制度の改革を決めさせるからこういった恥ずかしいことになります。

選挙制度を審議する別組織が必要です。このような状態が続くのなら。

自らの身を切ってでも公正な選挙制度改革ができる人たちなら必要はないのですが。

 

もしも、完全に人口比で議員を出すべきであるということならば、参院の「3:1」どころか衆院の「2:1以下」も不当ということになります。

これを衆院のように小選挙区比例代表並立制などという、珍制度でやりくりしようとするから大混乱を引き起こします。

絶対公正な人口比の議員選出を行おうとすれば、選挙毎に小選挙区を切り分けるということが必要になります。

そんな馬鹿なことはもう止めて、衆議院議員選出はもっとも公正であり、死票が最小になる、全国1選挙区の完全大選挙区制か、せめて各州ごとの大選挙区制とするべきです。

 

さらに、参議院はそのあり方の前提から変える必要があります。

衆院と同様に人口比の選出で良いのか、まったく違う方式を取り、その代りに参院の役割を変えるべきなのではないかとは考えられないのでしょうか。

例えば、「身分別議会」(そんなのは現代にはふさわしくない?そうでもないでしょう)

富裕層議員と、正社員議員、パートアルバイト層議員、生活保護者議員など、はっきりさせれば誰が誰のために政治をするのかが分かります。

冗談はともかく、

 

こういったことを、しっかり決めておくのが憲法の役割です。

憲法にはそのあたりまったくいい加減な記述しかありません。

ここを変える憲法改正ならば必要と思います。

 

「スクラップエコノミー」石渡正佳著

石渡さんは千葉県庁で産業廃棄物行政を担当し、「産廃Gメン」として活躍されたという方ですので、この本も「スクラップ」について廃棄物の観点から見たものと思いましたら、なんと国家経済や国の政策について非常に広く大きい見方を繰り広げられるという、良い意味で期待を裏切ってくれた本でした。

 

日本の住宅というものは、耐用年数が短くあっという間に資産価値が無くなってしまうと言う話は知っていましたし、会社の建物設備などの減価償却という制度もなんとなくはわかったつもりでいましたが、それが意図的に短い期間でスクラップとされることで、経済成長を果たしてきたカラクリというものが裏にあったと言うことは、この本を読むまではまったく気が付きませんでした。

 

まさに、目から鱗が落ちたと言うものです。

 

リサイクルなどというものがもてはやされ、様々なリサイクル法が作られていますが、そもそもロングライフが先に来ていればリサイクル自体の影響力も低下します。

ロングライフを成し遂げれば、ストックの価値も高まります。

それと全く逆のことをしてきたのが戦後日本の高度経済成長だったのです。

 

住宅の平均使用年数は、日本では26年と言われています。

しかし、アメリカでは44年、イギリスでは実に75年ということです。

日本では新築の戸建住宅でも評価額が建てたその年に70%、数年で50%を切り、長くても15年でほぼ0となってしまいます。

アメリカでは適当な手入れをしている限り、新築時の85%程度までしか下がりません。

日本で住宅ローンで住宅を購入すると言う行為は不良債権形成に他なりません。

耐用年数の長い住宅を建てるには建設費が多くかかるのでしょうが、それでも長く価値が残る方が良いにも関わらずそれができないのは、制度として有利にならないようになっているからです。

そして、それが住宅建設による経済効果を得たいがための社会構造を支えているからです。

 

ごみ処理の問題から、家庭ごみの減量化や分別排出などを進める運動が全国どこでも進められていますが、それでも現在の排出量で一生(80年)ゴミを出し続けると、生涯で32トンのゴミを出すことになります。

これを少しでも減らそうという努力をしているのですが、実は26年でゴミになる住宅は1軒で30-50トンになります。

生涯で3軒の家を建てる、つまり3軒の家をゴミにすればそれだけで100トン近いゴミを排出することになります。

イギリスは現在、実際に70年持つ家を建てています。日本でもそれくらいの家を建てる体制にすればそれだけでゴミの量も激減させることができるわけです。

 

このような、強制的に短い周期で住宅をスクラップにしていく制度、これをスクラップエコノミーと呼んでいますが、これが明治以来日本経済を繁栄させてきた仕組みなのです。

ストックを積み上げそれを大切に使っていくのではなく、安っぽいものを作り出しては捨てていく、そういったフローを膨れ上がらせるのが日本経済の本質だったのです。

その結果、世界第2位(本書出版当時)の経済規模にまで登りつめながら、実質的な豊かさが感じられない状態になってしまいました。

 

これは、住宅や自動車、消費財だけにとどまりません。

実は都市や社会インフラといったものでも同様なのです。

公共投資にも同様に高回転経済理論が適用され、安物ばかり作られてきました。

作っては壊すことがGDP増加につながりました。

数字の上では経済規模が増大しましたが、実質は違います。

 

出来るだけ早く「高ストック低回転経済」への転換を目指すことが、真の豊かさを感じられる社会への道なのですが、これまでの「低ストック高回転経済」で利益を得てきた連中が社会を引っ張っている以上、その転換は非常に困難となっています。

 

本書はその転換に必要な政治体制の変換も述べており、非常に内容の深いものとなっています。

 

 日本経済が「安物作り」であるというのは感じていましたが、それが経済規模の水増しにつながるというのは興味深い指摘でした。確かにそうなんだろうと思わせます。

 

訃報 熊本のアマチュア写真家 麦島勝さん逝去

熊本以外ではほとんど知られていない方だと思いますが、熊本県八代市のアマチュア写真家の麦島勝(むぎしま・まさる)さんが先日亡くなりました。

mainichi.jp

麦島さんは、若い頃からカメラに興味を持っていたそうですが、終戦直後から自分の周囲の日常の生活などを写真に撮るということを続けてこられました。

 

当時はまだ写真というものがそれほど行き渡っていなかった時代ですので、新聞などに載るニュース写真は残っているものの、何気ない日常の風景というものはあまり見ることができません。

ところが、それを数多く撮影してこられ、その写真が残っています。

八代市博物館(八代未来の森ミュージアム)にもその作品集が収められ、HPでも閲覧することができます。

http://www.city.yatsushiro.kumamoto.jp/museum/search/kyword303.jsp

(閲覧はできますが、コピーは不可です)

 

麦島さんは最近まで撮影を続けられていたようですが、今月17日に90歳で亡くなられました。大きな足跡を残されたと言えるでしょう。

 

 

「日本民族の誕生 環日本海古民族と長江流域文化の融合」安本美典著

在野の古代史研究家である安本さんが非常に大きな観点から日本民族の古代の成立について語っています。

著作は何冊もあるものの、既成古代史学会からは無視同然の扱いといったところでしょうか。

しかし、この本を見ても関連する研究者の意見には丹念に目を通し取るべきは取るといったところが見え、その主張にも妥当なところが多いように感じられます。

 

本書は非常に広く長い歴史的な観点から、新人類の出現と出アフリカ、そして日本列島へたどり着くまでの経過、縄文中期の鬼界カルデラの大噴火によって九州を始め西日本での人口急減、弥生文化の特徴と発祥、日本語の成立まで論じています。

 

遺伝的な日本人の由来という問題は、考古学者、遺伝学者が多くの実験的検討を行い結果も出ていますが、文化や言語と言う問題は遺伝子だけでは捉えることができないものを含んでいます。

多くの人々がすでに住む地域に、たとえ少数でも優れた文化を持つ人達がやってきたらどうなるか。

元から居た人々を駆逐するというよりは、受け入れ融合し文化のみを発展させたのかもしれません。

弥生文化に中国南部の少数民族の文化と共通するところが多いのもそのせいではないかとしています。

 

また、これは水稲栽培が朝鮮半島を経由したのではなく、中国大陸から直接やってきたのではないかという推測にもつながります。

朝鮮半島を経由し陸路で伝わるためには遼東半島の北側を通らねばなりませんが、その地域には水稲栽培の遺跡もなく非常に寒冷な気候のため水稲栽培は無理だったようです。

 

著者は、倭人の時代から現代に至るまで続いている「弓」の特異性についても取り上げています。

日本の弓は非常に長く、さらに上下が対称形ではなく上が長く下が短いという特徴を持っています。

実は世界的に見ても、このような長弓というものは珍しいもののようです。

ほとんどの地域ではアーチェリータイプの短弓を使っており、日本でもアイヌは短弓です。さらに縄文時代の弓もそれと似通ったもののようです。

朝鮮半島でも短弓を用いています。

それが、弥生時代倭人から2mにも及ぶような長弓を使うようになり、これは現代まで続いています。

実は、このような長弓は日本の他には太平洋の南方の島国に見られるそうです。

空中を飛ばすには短弓の強いものの方が有利であり、飛距離も長いのですが、長弓の有利な点は「水中の魚を射る」ことにあるそうです。

 

日本民族の成立には、日本語の特色からも分かるものが関わってきます。

日本語は類似した言語がほとんど無いと言えますが、基礎語彙、文法、音韻と別けて考えると、文法と音韻は朝鮮語アイヌ語に非常に似通っていることがわかります。

一方、基礎語彙は南方諸言語と共通のものが多いとしています。

つまり、元々は朝鮮語と類似した言葉を使っていたところに、強烈な文化を持った南方からの人々が中国南部からやってきた。

彼らは人口としては少なかったので土着の人々と入り混じりながら広がってきたので、基礎語彙はかなり自分たちのものを使うようになったものの、文法などは元のままだったのではないかということです。

なかなか面白く、結構納得させるような見解かと思います。

 

茅ヶ崎で老女が暴走運転、一人死亡

このところ頻繁に報道される、老人ドライバーの暴走による事故ですが、それが馴染みのある場所で起きると一層衝撃も強いものです。

www.yomiuri.co.jp

事故の場所はJR茅ヶ崎駅から少し北に行き、国道1号線(旧東海道)に出たところです。

つい最近も書いたように、茅ヶ崎は青少年の頃に過ごしたところです。

茅ヶ崎の話 - 爽風上々のブログ

引っ越した当初の今から50年ほど前は車の通行も少なくそこを遊び回ったと書きましたが、当時でも旧東海道の国道沿いは自動車の通行も激しく、あまり近づかないようにしていました。

 

その中でも、今回の事故の現場は茅ヶ崎駅のすぐそば、自動車もバスも頻繁に通り、さらに歩行者や自転車の通行も多いところです。

 

その場所を通るのに、事故を起こした女性の証言は「赤信号であることは分かっていたが行けると思った」という驚きのものです。

 

人から聞いた話では、世界ではそのような交通道徳の国もあり、歩行者として通行する際も信号が青だからと安心しては行けないというところもあるということは知っています。

また、日本でもほとんど車も歩行者も居ないところもあり、交通信号など守っても守らなくても大差ない場所もあるのも事実です。

しかし、東京都内ほどではないとはいえ、非常に交通混雑の激しいところで、このような運転をするとは。

 

加害者の判断能力は認知症とは言えない程度だということで、免許更新もできたそうですが、やはり若い頃とは判断力が違うのでしょうか。

 

現在の日本のような車社会にしてしまった社会の責任を棚上げにして、老人の運転のみを問題とするような主張には反感を感じますが、このような事故を目にするとやはり何らかの対策が必要かと思ってしまいます。

亡くなった女性はまだ50代とか、加害者の息子さんは私とほぼ同年代です。

やりきれない思いになります。