爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

私の方言体験 九州の言葉

方言というものの様々な面を目一杯取り込んでいるような熊本県に住んでいると時々それを意識させられるようなことに出会います。

 

つい先日も、町を歩いていて後ろの方で話している人が知り合いかと思ってドッキリしたけれど見も知らぬ人でしたということがありました。

 

実はこれはこのあたりに特有の現象かもしれません。

都会などでは、声はそっくりでもアクセントやイントネーションなどが全てそっくりという人はあれだけ人口が多くてもあまり居るもんではありません。

しかし、ここらへん(熊本県南部の田舎町)では多くの人がそっくりの話し方をするので、それに声質や音の高さまで似ていたら間違えてしまいます。

 

これは40年近く前に会社に入って最初の赴任地のこちらにやってきて、それまでの東京近郊とのあまりのギャップに驚いた当時から気がついていたことでした。

てっきり知り合いと思って振り向いたら赤の他人という経験が何度かありました。

 

それでも長くこちらに住んでいると、同じように聞こえていたものでも微妙に違うことも分かってきました。

市街の中心部、江戸時代から商業で栄えた地域と、周辺の農業地帯、さらに新しい時期に干拓で農地が増えたところに入植した人の多い地域など、それぞれ少しずつ言葉も違っているようです。

 

熊本弁というものは他の地域の人たちから見ればどれも同じように思えるかもしれませんが、熊本市周辺の県中心部とその他地域とは相当違います。

ローカルのテレビ番組も熊本市で作られていますので、熊本弁を使っている場面でも他地域からは少し違和感もあります。

 

熊本弁と言えばその独特の単語が注目されることが多いようですが、それより大きな問題はアクセントです。

熊本も「無アクセント地帯」と言われていますが、薩摩方言に近い県南はやや違いもあるようです。

ただし、八代市周辺は無アクセントに近いようで、我が家の家内も完全にそれです。

牡蠣も柿もすべて同じですので、この時期は戸惑うことがよくありますが。

「無アクセント」と言っても、高低アクセントは無いものの強弱はかなり大きく付けています。

これは聞きようによっては英語の感覚に近いものかもしれません。だからといってこの辺の人が英語を話すのが得意というわけでもありませんが。

 

40年住んで、まあほとんどの話は聞き取れるようになりましたが、まだ特に年寄りの会話には分からない部分もあります。奥の深いものと思います。

祝 羽生善治さん将棋永世七冠達成

将棋棋士羽生善治さんが、昨日の竜王戦でタイトル奪還に成功し、永世竜王の称号を獲得しました。

これで、将棋界の七大タイトルすべてで永世資格を得るという前代未聞の偉業を成し遂げたことになります。

 

羽生さんは1985年に棋士としてデビュー、それからわずか4年後に初タイトルを獲得し、その後も次々とタイトルを獲得、防衛を続けました。

タイトルを一つ獲得するということも難しいことですが、1996年には同時にその七冠を達成しました。その後はさらに若い人たちに挑まれタイトルを手放すこともありましたが、30年近くたち40代も後半にさしかかってもまだトップクラスとして活躍しているのは素晴らしいことです。

 

永世資格を複数取得というのも、大山康晴中原誠渡辺明という錚々たる面々のみであり、谷川浩司米長邦雄といった実力者でも成し遂げていません。

 

今年大きな話題となった中学生棋士藤井聡太さんも、タイトル戦に出場するのは早くても2-3年後でしょうか、まだまだどの程度活躍できるかも分かりませんが、大きな手本ができたと言えるでしょう。(なお、他にも実力十分の若手は何人もいます)

そして、彼らの前に立ちはだかるのはおそらくその時も羽生善治である可能性が大きいと思います。

これからも将棋界、面白くなりそうです。

 

 

50年近く前の蒸気機関車写真その2

写真をもう2枚。

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これは印象深いものですが、1970年2月22日、篠ノ井線電化完成で蒸気機関車さよなら運転が行われたときに、松本駅で撮影しました。

当時住んでいた神奈川県から、日帰りでこのイベントを見に行きました。

 

実は、2月20日が高校の入学試験の日で、まだ発表前でしたが、合格を信じつつ長野まで行ってきました。いい度胸をしていたものです。

 

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1971年7月23日、羽越本線で撮影したD51牽引の旅客列車です。

これも細かいことは忘れてしまい、どこだか特定できません。

駅のすぐそばで発車直後の映像です。

撮影した駅は象潟か小砂川だと思うのですが、それ以上の記憶がありません。

高校2年生の時ですが、よく一人でこんなところにまで出かけられたものと思います。

 

まあ、構図も撮影技術もいまいちというものですが、ご笑覧ください。

「聖書考古学 遺跡が語る史実」長谷川修一著

キリスト教旧約聖書というものは、ユダヤ民族の歴史を語っています。

聖書全体を真実と考えるのが宗教としてのキリスト教であり、教徒は程度の差はあれそう信じているのでしょうが、実際にはとても史実とは考えられないような話もあるのは確かです。

一方で、中東世界は古代文明の集まった場所でもあり、考古学者の興味の集中する場所でもあります。

その2つがぶつかることも多いと思うのですが、著者の長谷川さんの研究対象分野というのもまさにその中心の場所だったようです。

 

イスラエルやシリア、レバノン等の考古学検討をしていけば、聖書に書かれていることと食い違うことはいくらでも出てくるでしょう。

そんな摩擦は避けたいという人も多いようですが、著者は立ち向かい聖書の記載が考古学的事実と異なることは指摘しています。

 

旧約聖書でも創世記やエデンの園が実際の歴史であったと信じるのは原理主義者だけかもしれませんが、アブラハム以降の族長時代、エジプトでの奴隷境遇から抜け出し(出エジプトモーセ十戒を経てイスラエルの地を獲得していった時代、さらにイスラエル王国を打ち立てた以降の時代となると、かなり史実が含まれているように感じる人が多いでしょう。

実際に、かつては学校での歴史教育でも多くが史実そのものでないにしても何らかの事実を反映していると考え扱われていました。

しかし、考古学研究が進んでくるとどうしても事実と食い違っていることが多いことが明らかになったようです。

 

まず、旧約聖書がいつ頃書かれたかということを考えておく必要がありそうです。

もしも羊皮紙やパピルスに書かれたテキストがあったとしても残ってはいないのですが、粘土板に書かれたものは発掘されることがあります。

このようなもので発見されている最古のものは紀元前9世紀のものであり、紀元前8世紀以降のものは数多く見つかっています。

どうやらその頃に聖書が字として記述され始めたようです。

ただし、それ以前にはそういった内容は口述により伝えられていたはずです。

それは専門の人々により代々伝えられ続けていました。

それが何時始まったかということは確定することは不可能です。

こういった例は時代ははるかに下りますが、日本で古事記を文字化した事情と同一です。「稗田阿礼が暗唱していたものを太安万侶が筆記した」とされています。同様のことが聖書でも起きたのでしょう。

 

ユダヤ民族の最初の族長と考えられているのはアブラハムです。

その後、イサク、ヤコブといった子孫につながっていきますが、彼らがカナンの地すなわちパレスチナを神から与えられたということになっています。

しかし、どうやら考古学的にはその時代にパレスチナでこのような人々の居住の証拠は得られていないようです。

 

エジプトの地で苦しんでいたイスラエルの民をモーセが導き荒野をさまよいパレスチナに至るという、出エジプト記旧約聖書の一つのクライマックスですが、エジプトの記録はかなり古い時代のものまで文字として残っており、そこにはこのような事実の反映はほとんど認められません。

 聖書でも年代の記録が記されており、それを積算すれば西暦との換算も可能ですが、それで計算すると出エジプトは紀元前1440年と計算できます。

しかし、その頃はエジプト第18王朝のトトメス三世の治世であり最盛期と言ってよい時代でした。パレスチナまでその統治は及び、イスラエル人たちがエジプトは逃れても、行き場所は無かったでしょう。

そこで、一部の研究者たちはその年代はあきらめて、別の時代にこのような時期が無かったかを探そうとしますが、いずれの時代にもエジプト側の記録にはこのような事実は見られないため、史実ではないと考えられます。

 

とにかく、聖書ではエジプトを逃れたイスラエル人はカナンの地に入り様々な国を攻略し国の再建を果たします。そこではエリコの城壁を角笛を吹き鳴らして崩したという印象的な挿話もありますので、このエリコが現在のどこか、その城壁に崩れた所があるかということを探そうとする聖書学者も多かったのですが、これも事実とみなすことは難しいようです。

 

ダビデ、ソロモンで最盛期を迎えたというイスラエル王国時代になれば考古学的な遺跡と聖書記述が近づいてきそうなものですが、これもピタリとは行かないようです。

なにしろ、その都であったのが現在のエルサレムですので、発掘も思うに任せず難しいようです。

ダビデという王が存在したという証拠もはっきりとはしていないということです。

ただし、この付近の発掘が進められないのは現在の政治情勢のためでもあり、安定化すれば新たな発見もできるかもしれません。

平和が訪れ、遺跡発掘も安心してできるようになることを望みます。

 

聖書考古学 - 遺跡が語る史実 (中公新書)

聖書考古学 - 遺跡が語る史実 (中公新書)

 

 

「日米地位協定入門」前泊博盛著

最近またも在日米軍の兵士の関係する事件が相次いでいます。

そこで必ず出てくるのが「日米地位協定」というものであり、そこに問題があるということもなんとなくは感じていました。

図書館でたまたまこの本を見かけ、きちんと内容を知っておく必要もあるかと思い借りてきて読みましたが、

「想像以上のひどさだった」

 

日本というものが実質的にはアメリカの属国同様ではないかといった感覚はずっと感じていましたが、その根源はここにあったと言えるようです。

現在では、中国や韓国の肩を持ったような発言をしただけで「売国奴」呼ばわりをする輩がいますが、この日米地位協定を作り出し守ってきた連中こそその名にふさわしいのは確かでしょう。

 

編著者の前泊さんは、琉球新報社に勤務したあと、沖縄国際大学教授に転じましたが、その大学に2004年に米軍のヘリが墜落した事故がありました。

その時、米軍は墜落したヘリの周辺を閉鎖し日本の警察どころか大学関係者も立入禁止として事故機を隠蔽しました。

これも地位協定のせいです。

 

沖縄だけがこういった扱いをされているように感じますが、実は協定は別に沖縄だけを特別扱いしてはいません。日本全土が同様の扱いをされることになっています。

もしも、東大にオスプレイが墜落したら米軍は同様の措置を取ることでしょう。

 

このような取り決めが結ばれているような主権国というのは、ありえません。属国か植民地であるというのが実状でしょう。

沖縄だけが基地が集中していると言われていますが、東京周辺にも横田基地横須賀基地と大規模な米軍基地があり、これは「日本政府を監視している」も同然なのです。

 

そもそも、サンフランシスコ講和条約を結んで日本占領が終了した時に、占領軍も退去するのが当然です。しかし、その講和条約と同時に日米安保条約が結ばれて米軍がそのまま日本に留まることを受け入れさせました。

そして、その時に細部を定めるとして「日米行政協定」なるものを締結しました。

しかし、これが実際は米軍がこれまで通りに日本全土を自由に使用するための方策を定めたものだったのです。

それを改定したものが「日米地位協定」ということです。

 

一般的に考えれば、講和条約、安保条約、行政協定が同時に結ばれたとしても、講和条約がもっとも上位であり、安保、行政協定とその位置は下がるはずですが、実際は行政協定が最も重要であったということになります。

 

日本は戦争で負けたからこのような扱いをされても仕方がないということを論じる人もいます。

しかし、同様に敗戦したドイツやイタリアでもこのような屈辱的な状況ではありません。

両国とも国内法が優先して適用され、米軍のやりたい放題ではありません。

ごく最近敗戦したイラクでも、占領終結時には米軍を残さずに退去させました。

フィリピンでも米軍基地を廃止しましたがそれで中国が進出してきたというのは根拠のないプロパガンダのようです。

 

地位協定にはさらにその解釈マニュアルもあるようですが、外務省機密文書で外部には目に触れないようにされているということです。

琉球新報社が入手し発表したのですが、現代でも最悪の不平等条約の裏側を示しています。

読めば読むほど日本の現状というものについて驚きと怒りがこみ上げるものでした。

 

本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」 「戦後再発見」双書

本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」 「戦後再発見」双書

 

 このような日米関係に浸りきっている安倍首相が主張する日米同盟強化や相互安全保障、集団的自衛権などというものがどのようなものかというのは明らかでしょう。

さらに米に対する隷属を強めるだけのようです。

 

50年近く前の蒸気機関車写真

何日か前に書いた、物置の整理で見つけ出した少年時代に撮影した写真のネガですが、ようやくフィルムスキャナーでの取り込みも終了しました。

中から特に出来の良かったと思うものをいくつか載せておきます。

 

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これは1972年3月27日に中央本線で撮影したD51です。

残念ながら詳しい場所についてはまったく覚えていません。

行ったところはおそらく藪原周辺のはずなのですが。

D51も最近は復元されて観光列車を引いて走る姿が見られますが、この当時のしっかりと仕事をしているという光景が懐かしく思い出されます。

 

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この写真は1971年7月22日、奥羽本線二ツ井駅から当時の七座信号所に向かった辺かと思います。

奥羽本線も当時は電化間近、しかしこの近辺は新線に路線変更ということで架線工事も行われておらず、撮影しやすいということで場所を選んだものでした。

機関車はやはりD51蒸気機関車最後の活躍の頃にはもっとも多く見られたものです。

 

もう一回続く

「私家版 日本語文法」井上ひさし著

小説家戯曲家として有名な井上ひさしさんですが、日本語文法にも造詣が深く、何冊かの本も出されているようです。

これはその一冊ですが、とは言え堅苦しい文法解説ではなく、様々な文法上の問題点を取り上げたエッセイとなっており、その中で巧みに文法解説もこなしているという、手の込んだ作りになっているようです。

 

たとえば「擬声語」を語る時にはまず最初に、「ゴルゴ13」の一節を取り上げ、「ジェット旅客機がグオオーと飛び、自動車がブィーと疾駆し」と示したあとに、日本語において擬声語、擬態語など自然音の模写というものが江戸時代にもいやというほど行われてきたという例を取り上げています。

それは、実はさらに時代を遡った鎌倉時代にも見られ、源実朝の和歌にもそれが見て取れるとか。

そして、そのような重要な働きをする擬声語というものを、現代の文法教育ではほとんど取り上げていないということにも言及しています。

 

漢字とローマ字を取り上げている章でも、その卓見は並の文法学者などよりよほど優れているようです。

ヨーロッパ系の言葉では「音声中心」が圧倒的であるのに対し、日本語の漢字かな交じり文というものは世界で唯一の映像文字である漢字を用い、文章を見て瞬時にその意味を取れるという優れたものです。

一時はアルファベットを用いた国際化などということが言われましたが、それに対しては「日本人がおたがいのために漢字混じりの仮名文で読み書き話し合う。そのどこがいけないのだろう。これで孤児になるというなら、孤児で結構、大結構」と言い切っています。

白川静さんは「漢字はもはや中国からの借り物ではない。訓読できるようになった瞬間からわれわれのものになったのである」と言ったそうですが、それに対し井上さんは次のように言いたいとか。

「政治家よ、字をいじるな。票でもいじっていろ」

 

軽い感じで書かれた文章ですが、その内容には非常に深いものを感じさせます。

 

私家版 日本語文法 (新潮文庫)

私家版 日本語文法 (新潮文庫)