爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「オスプレイの謎。その真実」森本敏著

著者は第11代防衛大臣、ちょうど民主党政権時代に民間から防衛大臣として入閣し、オスプレイ在日米軍配備の時期と重なったために苦労をしたそうです。

 

実は、著者は防衛大学校卒、そのまま防衛庁に入庁したという専門家でした。

民主党政権の大臣など皆素人ばかりでドタバタを繰り広げたイメージでしたが、そうではない人も居たということでしょう。

ただし、そのせいかこの本に書いてある内容も防衛省自衛隊の公式見解とほとんど同一ということで、その点は意識して読まないといけません。

 

オスプレイは、「ティルト・ローター機」としては唯一実用化されている輸送機です。

翼の先端に付けられたローターを可動させることにより、ヘリコプターのような離着陸と、飛行機のような高速飛行を可能としており、これまでのCH-46ヘリと比べて格段に優れた航続距離、搭載能力、飛行速度、機動性を有しています。

 

ヘリコプターは飛行機(固定翼機)より遅れて開発され、ようやく1940年代になって実用化されました。

垂直に離着陸できるという性能が利点となるのですが、そのためのエンジン出力は大きなものとなり、機体重量を重く出来ないという欠点があります。

また巡航速度もせいぜい250km毎時程度であり、航続距離も短いものです。

これを改良するとして、VSTOL機の開発が行われ、ハリアーヤコブロフ38が作られましたが、性能を上げると高価になりすぎるという欠点がありました。

 

そこでティルトローター機の開発という方向に進むこととなり、1950年代には試作も進められたのですが、あまりにも構造が複雑となったために完成に至りませんでした。

しかし、1979年のイラン革命時にアメリカ大使館員が人質となった際に、その救出を行うイーグルクロウ作戦というものが実施されたのですが、ヘリコプターの能力不足のために失敗したということがあり、さらにその後の中東方面の軍事的作戦実施の場合も常にこのヘリコプター性能の制約というものが問題となり続けました。

是が非でもティルトローター機の完成を目指すということに邁進し、ようやく完成させたのがオスプレイでした。

 

開発中から、実際に配備されたあともオスプレイの事故は起きています。

輸送機として使われているために事故の際の犠牲者が増えてしまうということはありますが、それにしても死者数も多いようです。

なお、エンジン停止の場合にヘリコプターであれば「オートローテーション」と呼ばれれる、エンジンが止まってもローターが回り続け徐々に降下して着陸できるのですが、オスプレイにはその機能が無いと言われています。

しかし、オスプレイがその機能をもたないということではなく、「やや降下速度は速くなるがちゃんと着陸できる」程度の機能は持っているということです。

降下速度が速いために機体が損傷を受ける程度ではあるが、墜落はしないとか。

そのため、訓練も実機では実行できずシミュレーターでやっているそうです。

 

オスプレイの日本配備にあたっての、国民の拒否反応については、著者は批判的です。

このオスプレイを配備することで米軍の能力向上は大きなものであり、少々の危険性は我慢しろということでしょう。

さらに、現状のCH46ヘリの方が事故率が高く危険であるということです。

(これは、この前の沖縄の事故で証明されましたが)

 

政治的な議論では多くの反論が来そうな本ですが、オスプレイの概要を知るという目的では見るところがありそうです。

その場合、第2部だけ読んだほうが良さそうです。

 

オスプレイの謎。その真実

オスプレイの謎。その真実

 

 

再認識 白黒フィルムの底力

年末に向け大掃除の一環として、物置に入れっぱなしにしていた昔の書類などの整理を始めました。

 

すると、昔撮影したネガフィルムが大量に出てきました。

大体、中学生から高校生くらいの頃に撮った白黒のフィルムです。

 

実は、半年ほど前にフィルムスキャナーを購入し、ネガフィルムのデジタル化を行っているのですが、中高生時代のフィルムが見当たらず、もしかしたら実家に置いたままで失くしてしまったかと思っていました。

どうやら、実家を改築した際に当時残っていたフィルムなどはこちらに送られていたようで、それをダン箱に入れたまま忘れていたようです。

 

早速、出てきたフィルムのスキャンを始めました。

これまでにも多くのフィルムのスキャンはやってきたのですが、カラーフィルムの劣化は激しく、20年程度のものでも黄変しているものが多く、がっかりさせられていたのですが、今度出てきた白黒フィルムはそのような劣化は無く、若干のカビは見られるものの相当良い状態が保たれていました。

 

撮影した対象はその当時一所懸命に撮っていた蒸気機関車が多いのですが、ネガフィルムを見ているとどういった状況で撮ったのかも忘れているものが多く、50年近くの年月が経ったことを再認識されます。

 

それ以上に、これだけの年月が経ってもびくともしない白黒フィルムの品質には驚きました。

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これは1971年7月に撮影した、奥羽本線のC61です。どのカメラでどのレンズかということも忘れてしまいました。

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こちらはその翌日に山形県酒田駅で撮影したD51です。

蒸気機関車もさることながら、駅の光景が時代を感じさせます。

まだ高校2年生だったのですが、2泊3日の撮影旅行に一人で出かけました。

 

まだあと20本位のネガが残っています。どのような画像があるのか、楽しみです。

 

「朝鮮通信使 江戸日本の静信外交」仲尾宏著

つい先日、ユネスコの世界記憶遺産に登録されたことで話題となった朝鮮通信使ですが、その全体像を10年前に日朝の関係史が専門の著者が著していました。

 

江戸時代には国同士の対等な関係の外交というものは、朝鮮との間にのみ存在しました。

そしてそれは間隔は均等とは言えないながらも長く続いており、その意味ではとても「鎖国」などという状態では無かったとも言えます。

 

日朝間の関係は古代から続いていたのですが、豊臣秀吉朝鮮出兵、日本で言う「文禄慶長の役」朝鮮では「壬辰倭乱、丁酉倭乱」で最悪の関係となりました。

豊臣秀吉の死去により日本は撤兵はしたものの公式に戦争終結の交渉もされず、また3万とも5万とも言われる朝鮮人民の拉致した被虜人が日本に連れ帰られました。

 

古くから朝鮮との交易で利益を上げていた対馬の領主の宗氏はその状態では困窮することとなり、日朝の復交を画策することとなります。

また他の大名も和平交渉を求める動きがあり、加藤清正は独自に明軍捕虜の中国人を送り返すということもしています。

そのため、朝鮮側も日本の現状を探ろうとし、松雲大師という僧侶を送ることとなりました。1604年のことでした。

徳川家康もこの動きを利用し、国交正常化を成し遂げようとします。

松雲大師と直接会見し、自分は朝鮮出兵には関わっていないこと(ウソですが)を言明し、さらに朝鮮人被虜人の送還を実施することを約束し、実際に帰国の際に1000名以上を連れ帰らせます。

このような情勢の中、1607年には第1回の朝鮮通信使(この時は「回答兼刷還使」)を送り出すこととなります。

 

始めのうちは儀礼をめぐる食い違いや思惑などからぎこちないこともあったのですが、日本側の官民を挙げての丁重なもてなしもあり、友好的なものとなっていきます。

その使節団には多くの文化人も含まれており、日本側はその逗留中に面会を求めるものが多く、儒教についてや漢詩について、また医薬についてなど多くの文化的交流がなされることとなります。

また、接待にあたった各藩の武士や宿舎となった寺院の関係者などが使節団員にねだって書き残してもらった詩文や絵画などが全国各地に残っているということにもなりました。

 

朝鮮通信使は釜山を出発するとまず、対馬に立ち寄ります。そこから対馬藩の担当者とともに船でそのまま瀬戸内海を通り大坂に向かいました。

周防上関や明石などで各藩の接待を受けた後、大坂に到着、そこで船を乗り換えて淀川を遡上。

そこからは陸路で江戸に向かいました。

東海道の道中には河川が何箇所かあり、徳川幕府の方策で橋はかけられておらず、通常は肩車や蓮台で渡っていたのですが、通信使通行の場合は必ず舟を並べた仮橋を作ったそうです。

また、通信使の食事は日本側としては困惑したもののようで、肉食の習慣のない日本人は料理もできず、豚や牛を集めるだけは集めて、そのまま使節側に渡しそちらで料理してもらったとか。

 

朝鮮通信使に関わった中でももっともその功績がある人が、雨森芳洲でした。

近江の国の出ですが木下順庵に学び、その後対馬藩に仕えました。

通信使接待と江戸往復の護衛・相伴を担当したのですが、朝鮮語も習得しました。

朝鮮語を若者に教える教場を対馬に作り、後継者を育成するなど、その後の通信使運営にも尽力したそうです。

 

新井白石も通信使来日の際に対談しその知識や漢文の正確さで使節を驚かせたということですが、費用節減を図り使節接待の簡素化を目指したり、内心では朝鮮使節を軽んじたりと、あまり通信使のためになることはしなかったようです。

 

雨森芳洲の遺した「交隣提醒」という文書には「文化相対主義」ということが説かれています。

各国の文化はそのまま尊び交わるという、現代の「多文化共生」に当たる考え方と言えます。

また、その中で「誠信の交わり」という言葉も説いています。

外国との交渉では忘れてはならない心構えということでしょう。

 

朝鮮通信使―江戸日本の誠信外交 (岩波新書)

朝鮮通信使―江戸日本の誠信外交 (岩波新書)

 

 

夢の話「時代劇の主人公」

またなんとも変な夢を見てしまいました。

 

私はどうやら武士らしく、しかもある小藩の家老のようです。

藩の名は判然とはしませんが、垣崎藩とかいうようなところで、自分の名前は但馬守常久といったようなものです。

 

藩の情勢は大混乱で、どうも近々無くなってしまうような雰囲気です。明治維新の頃をイメージしていたのでしょうか。

その中で、保守派の私は改革派たちとの政争に巻き込まれています。

 

なぜか、藩お抱えの忍びの者は反対派ですが、小藩のことで8人しか居ません。

忍びの者は必ず二人で行動していますので、これを切るには大変な危険が伴います。

しかし、私は部下の者たちの手を借りずにこの8人を切る覚悟を決めます。

 

一方、間近に家中の者すべての俸禄返上が迫っており、その対応も重くのしかかっています。

 

こう振り返ってみると、時代劇と言いながら完全に中間管理職の悲哀の夢のようです。

どこまで行っても、あの頃の心理的な負担感というものから逃れられないのでしょうか。

 

「リスクの世界地図 テロ、誘拐から身を守る」菅原出著

世界各国に仕事のために赴く人々は増えており、それにつれてテロや犯罪に巻き込まれる人も出ています。

 

海外留学に引き続いて海外での仕事を続け、現在は国際政治アナリストという著者が、世界各国の危険度を詳細に語っています。

ただし、本書は2014年の出版ですのでそれからさらに状況が変わっているところもあるかもしれません。まあ、良くなっているということはほとんど無いでしょうから、悪化の度合を慎重に見なければならないでしょう。

 

本書は海外へ社員を派遣するような企業と、実際に赴く社員向けに書かれているようです。

どんな危険があっても脳天気に観光旅行をするような連中はあまり意識されていません。

危険であっても仕方なく仕事をせざるを得ない人たちが無事に帰国できるようにと言う意図が見えます。

 

本書前半は、海外への人員派遣をする企業に対し、セキュリティ対策の立て方ということから説明されています。

英米などの企業では自らが十分に安全対策をしなければ社員の命を守れないという意識が強いのに対し、日本ではそこまで真剣に考えている企業は少ないようです。

ブリティッシュ・ペトロリアム社は石油開発プラントを世界各地に置いていますが、その一つ一つにセキュリティの専門家を配置し、社員の安全対策を行っているそうです。

日本企業では現地の警備会社を雇って警備させるといった対応がせいぜいで、社員に対する安全教育というものもおざなりになっているようです。

 

本書後半は世界各国のそれぞれの危険状況を詳述しています。

最初に評点が示されていて、全般的脅威度、軽犯罪(スリ・窃盗)リスク、凶悪犯罪(殺人・誘拐)リスク、暴動・政治リスク、テロ・リスクのそれぞれが0-5で示されていますが、最悪の5の多いこと。

シリアなどは全部5です。

 

危険な国と言っても、スリや置き引きの多いというまだ程度の軽いところから、あちこちで爆弾が爆発し、人が歩いていれば強盗殺人、レイプが頻発といったひどいところまで様々です。

テロ組織が堂々と活動している国もありますし、犯罪集団、特に麻薬関係の危険性が高いところでは誘拐も頻発というところも多いようです。

いずれの国も政府がほとんど機能しておらず、警察も腐敗していたりと状況が悪いところがほとんどです。

 

この本に収録されている危険な国々も、観光客目当ての宣伝をしているところが多いようです。そんな宣伝に乗せられて出かける観光客も多いのでしょう。危ない話です。

 

リスクの世界地図: テロ、誘拐から身を守る

リスクの世界地図: テロ、誘拐から身を守る

 

 

「インバウンド」阿川大樹著

「インバウンド」という言葉は、最近では「海外から来日する観光客」という意味で使われることが多いようですが、この本では「コールセンターなど電話を受けて色々な対応をする仕事」の意味で使われています。

「アウトバウンド」とは、それに対して自分から電話をしてセールスなどをするような職業のことだとか。

 

この本も架空の主人公の小説ですので、あまり筋書きについては書きませんが、主役の上原理美さんは沖縄出身、東京の短大に進学して東京で就職し勤めていたものの会社に居づらくなって沖縄に帰る。

しかし、実家を捨てて上京したような過去のために両親に帰ってきたことも言えず一人暮らしで就職先を探し、ようやく某コールセンターに就職し、顧客からの電話に答えるという仕事を始めます。

 

他のルポなどでも紹介されていますが、こういったコールセンターに勤める人は非正規雇用が多く安月給で厳しい顧客対応をしなければならず、離職率も高い職場のようです。

 

その中で、上原さんは様々な問題に悩まされながらも仕事を続けていくと言った内容になっています。

 

著者はこの本を書くに当たり、実際に沖縄に渡りコールセンターの内部も取材、滞在して書き上げたそうです。

そのためか、実在感の強い物語に仕上がっていたように思います。

一種、清々しい読後感を貰えた本でした。

 

インバウンド

インバウンド

 

 

「なぜ、ラーメン屋の8割が3年で消えるのか?」鴨志田晃著

いかにも本屋で手に取らせたいという思惑が強いような題名ですが、中身はかなりその印象とは異なります。

 

一応、ラーメン屋開業の話というのも導入的に入れてありますが、主題はアメリカのビジネススクールなどで教えられている経営理論、それを勉強すればMBA経営管理修士)として企業経営に当たることができるというものを、紹介していこうというものです。

 

著者は名古屋商科大学横浜市立大学で実践経営学の教鞭をとっている方で、この本の内容もその教育内容の一つの「戦略的店舗経営」の内容をごく簡単に分かりやすく書いたものだということです。

 

こういったビジネススクールの講義では通常は多くのカタカナ語やアルファベットそのままの用語が飛び交っているのが普通なのですが、これもできるだけ分かりやすい言葉で言い換えています。

たとえばマーケティング分野でも「バイラテラルマーケティング」「ステルスマーケティング」、そして「3C」「4P」「5F」等々、MBAの人々はこういった用語を使いこなして議論をしていますが(ホントかな)これでは素人は怖気づきますのでそれは避けたということです。

 

話を進めていくために、山田さんという脱サラをしてラーメン店経営を目指す人を描いています。

まず、戦略を考えること。

一人で何から何までやるような小さな店でも、緻密な事業計画を立ててから動かなければいけません。店舗経営の基本は「マーケットを見ること」「投資を回収すること」です。

 

誰をお客様とするのか。

ラーメンであっても様々な種類、タイプがあります。それによって客層も変わってくるのでどこをターゲットにするのかをはっきりとしなければいけません。

 

繁盛する仕掛けをつくる。

マーケティングミックスという手法でターゲット消費者に売れる仕組みを作っていくこと。

 

リピート客を囲い込む。

安定経営にはリピート客の存在が欠かせません。

もしも不満があっても、ほとんどの客は何も言わずに帰って二度と来ません。もしそのような事があればなんとしても早めに掴んで直さなければ閉店へまっしぐらです。

 

儲かる店舗の数値管理。

客がそこそこ入っていても意外に収益が上がっていないという店舗も多いようです。売上と利益というものをしっかりと整理して正しい数値を認識すること。

損益分岐点分析というものも必要になってきます。

 

多店舗化を成功させる。

一つの店が成功しても、二店目、三店目と出店していって失敗する経営者が多いようです。

自分自身が店に立って運営できる一店目と違い、誰かに任せなければなりません。

そういった経営という観点から運営できる人でなければ多店舗化はできません。

 

まあ、このような経営理論を身に着けた人がラーメン店開業などはしないでしょうが、なかなか分かりやすい話になっていました。

 

なぜ、ラーメン屋の8割が3年で消えるのか?―事例でわかるMBA式経営入門

なぜ、ラーメン屋の8割が3年で消えるのか?―事例でわかるMBA式経営入門