著者はNHKのプロデューサー、尖閣諸島領有をめぐる日中間の緊張が高まるなか、これまでの外交での交渉を検証する番組を作成しました。
2012年のことです。
その内容に、放送できなかったものも加えて本書が作られました。
戦後すぐからの交渉担当者など、すでに亡くなった人も多いのですが、またこのインタビューを行った後に亡くなった人も居ます。
日本側ばかりでなく、中国政府でかつて交渉にあたった人々にも取材をすることができました。
双方の証言、そしてアメリカからも証言を集め、外交交渉の実態をまとめたものです。
太平洋戦争後、占領下におかれた日本がようやく独立を果たすと徐々に中国や東南アジア諸国との外交も復活しようとする動きが出てきます。
1955年に開かれたアジア・アフリカ会議、いわゆるバンドン会議は日本が戦後はじめて参加する国際会議でした。
ここで、日本代表の高碕達之助は中国の周恩来と顔を合わせます。
高碕は、議員としては当選一回の新人でしたが、東洋製罐を立ち上げ、その後は電源開発総裁などを務めた実業家でした。
アメリカは日中の交渉をよく思わなかったのですが、高碕の独断で会談を行いました。
周恩来も外交デビューと言えるものであり、これが戦後の日中接触の始まりでした。
尖閣諸島は1885年に日本政府が領有関係の調査を開始し、1895年、日清戦争もほぼ日本の勝利に終わることが明らかに時点で日本領有を決定しました。
ただし、これはあくまでも「日本政府の閣議決定」であり国際法上無効であるという意見もあります。
その直後に日清戦争が終結し、下関条約を結んで清国より台湾などを獲得しましたが、この中には尖閣諸島は含まれない(それ以前に日本領としたから)と言うのが日本の言い分です。
1945年に太平洋戦争で日本敗戦、12月にアメリカによる沖縄統治が始まり沖縄はアメリカの施政権下におかれ、尖閣諸島もそこに含まれることになります。
1951年にサンフランシスコ講和条約が結ばれますが、そこには中国は出席していません。
1969年に、尖閣諸島近辺で石油資源が発見されました。
そこで、台湾を領有していた国民党の蒋介石は動き出します。
時を同じくして、沖縄の日本返還が決まろうとしていました。
台湾は、沖縄の日本返還自体にも異議を唱えます。
さすがに沖縄は日本へということは認めたものの、尖閣諸島については、中国、その時点では台湾の中華民国領有を主張します。
日本政府も領有を主張しますが、アメリカはこの争いに巻き込まれるつもりはなく、アメリカの施政権の及んでいた尖閣諸島は、日本に施政権を引き渡すということでごまかします。
この時期、日米間には繊維貿易問題という大きなトラブルの種が存在していました。
日本の佐藤政権はこの問題の重要性を過小に認識していたようです。
しかし、ニクソン政権は日本のその態度に激怒し交渉は難航しました。
わずかなきっかけがあれば、この時尖閣諸島を台湾へという可能性も強かったようです。
ここをキッシンジャーが踏みとどまって裁定し日本へと決まったそうです。
ところが、そのわずか28日後、キッシンジャーが中国を訪れ周恩来と会談したという大ニュースが世界を駆け巡ります。
10月には国連でアルバニア決議が採択され、台湾が国連安全保障理事会理事国の座を失い中国(中共)がそれに代わることになります。
台湾は国連も脱退するのですが、尖閣諸島領有権主張も中国が引き継ぐという事になってしまいます。
そして、田中角栄の中国訪問と言うことがそれに続くわけです。
中国は当時はまだ日本軍国主義復活に対する警戒感が強かったのですが、これにはアメリカからの日米安保体制堅持の説明がありました。
田中角栄内閣誕生とともに、日中国交回復交渉も動き出すのですが、その裏方ともなったのが外相に就任した大平正芳でした。
大平はその誠実な態度で中国の信頼を勝ち取り、交渉もようやく軌道に乗っていきます。
ただし、そこには尖閣諸島問題などよりはるかに大きな問題が山積していました。
たとえば、中国からの日中戦争に関する賠償要求の問題です。
それ以前に東南アジア各国に支払われた賠償金から考えても、最大の被害国である中国が賠償請求すれば多額になることは確かでした。
しかし、中国側が下した判断「日本軍国主義者と日本人民は別」と言う原則で、現在の日本に賠償請求すれば日本国民が苦しむということを避けるということで賠償はしないということになりました。
ここではあくまでも「軍国主義者」への責任追及は放棄していません。
中国が今に至るまで靖国神社参拝にこだわるのも、A級戦犯合祀が問題視されているのは間違いありません。
その次に取り上げられたのが尖閣諸島問題でした。
ここは中国側もその時に触れる必要は無いという態度でした。
日本側も問題にしないという態度を取りました。
しかし、これが後に「日本領土であるので問題ではない」と主張する理由にもなります。
ここに、「触れないこと」という暗黙の合意があったのかどうか、問題となるところです。
一つの問題でもこのようにその経緯について多数の関係者の証言を得るというのは大変なことです。
国の公文書の保存と言うことは今も非常に大きな問題ですが、きちんとした保存の機関が必要でしょう。
それをウヤムヤにしてしまおうという官僚組織には厳しい態度が必要です。