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爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「名字と日本人 先祖からのメッセージ」武光誠著

武光さんの本は以前にも読んだことがありますが、歴史のいろいろな話題を並べてあるといったもので、「歴史観が通説通りで面白味がない」などと失礼なことを書いてしまいました。

sohujojo.hatenablog.com

しかし、この本の内容はどうも武光さんの歴史学研究の専門分野に近いところのようで、書かれている内容も精密で詳細、論旨もはっきりとしておりさすが専門家という感想を持たされました。

 

現代で「名字」というものは名前の上の部分で家に特有の名称と言った解釈を誰でも持つでしょうが、これに似た言葉には「氏」「姓」「名字」「苗字」と言った言葉があります。

しかし、これらははっきりと意味が異なり、歴史の様々なところで使われてきたものです。

 

まず、「氏」というのは古代の支配層の豪族がその名称としていたものです。「藤原氏」「大伴氏」といったものであり、庶民ばかりか中流貴族は地方豪族も「氏」は持っていませんでした。

次に「姓」というのは、大和朝廷がすべての国民に名乗るように定めたというもので、670年に庚午年籍という戸籍を全国的に定めた時に登録させたものです。これには本拠地の地名を取ったものの他に、物部や鏡作といった職名から取ったものもありました。

「名字」というのは平安時代末から武士の間で使われるようになった通称です。

例えば北条時政は「北条」が名字ですが、実は「平朝臣」という「姓」も持っていました。しかし、すでに姓を使うことはほとんど無くなり、朝廷向けの文書署名のみに使われるようになっていました。

「苗字」という言葉は、江戸時代になり「名字」に代わって正式に使われるようになったもので、苗字帯刀と言った言葉に使う場合はこちらを使用します。明治初期に「苗字必称令」が出されるまではこちらが使われました。

 

現代の研究では名字の種類は29万種あるということです。このように多様なものが生まれたのには歴史的なきっかけがあったようです。

ただし、その多くはほとんどが少数のみの希少姓と言うべきものであり、鈴木・佐藤などのありふれた姓のベスト10で人口の1割を占めているそうです。上位100位までで人口の22%に達するとか。

 

名字というものが発生したのは平安時代末期からですが、そこには武士というものが社会的に意味を持ってきたのと大きく関わります。

それまでの「氏姓」というものは京都の中で限られた貴族社会の中では通用しやすいものでした。藤原氏はすべて同族という意識があり、摂関家などという上流の人々も下級の官人にしかなれない傍流の人も同じ藤原氏という感覚があったそうです。

しかし、源氏や平氏などの武士が全国各地に散らばり、そこで勢力争いをするようになっていくと、同族かどうかという意識はほとんど意味がなくなってしまいます。

すると、有力な武士団ではそれを構成する同族だけを区別する通称が必要となってきました。

そこで生み出されたのが「名字」であり、その発生は「武蔵七党」ではないかというのが著者の見方です。

 

中世の武士が「名字地」と呼んだものは、10世紀に始まった「名」の制度によります。

それ以前には国の国司から土地を与えられた農民の名を土地台帳に記す習慣がありました。

国司の支配が緩んでからも所有者の名前などを土地に付ける習慣は残り、それを「名田」(みょうでん)と呼んだようです。

その持ち主が「名主」(みょうしゅ)でした。

 

そのような名田の名前が名字となり、それを所有する家の名前となっていきました。

古代の姓と中世の名字の違いは、それまでの大きな血縁集団(氏)単位の社会から、「日本的家」と呼ぶべき大家族単位の社会への転換を意味します。

名字というものを広めていったのは、それまでの支配階層であった郡司などを務めた豪族に対抗して自立していった村々の領主たちであったろうと推測しています。

 

その後、源平の争乱から鎌倉時代に入ると源氏・平氏の武士たちが多数活躍しますが、その系図を見ると兄弟がすべて別の名字を名乗っている特徴が見られます。

源頼朝に至る嫡流は源氏のままですが、そこから別れた兄弟の家系は多田、新田、足利、佐竹、武田等多数になります。

これは分家して独立したものはその所有する名田の名を名字としたことによるもので、それを明確にする必要があったためです。そうしなければいまだに「家の子」と呼ばれる被支配者であると言うようなものであるということに等しく、独立した家長であることを誇示したわけです。

なお、源氏嫡流はそのような名字を持たずに「源」のままでしたが、これは鎌倉幕府の中で厳しく使用を制限されていました。使えるものは「御門葉」と呼ばれる8家だけでした。

ここには義経は入っていません。

しかし源頼朝の不興をかった義経は「腰越状」という弁明の書状を頼朝に送ったのですが、そこに「源義経」という署名をしてしまいました。それがさらに頼朝の怒りを呼んだというのが著者の見方です。

 

ただし、同時代でも地域により大きな差があり、西日本では旧来の国衙の影響が強く昔からの姓を重んじて使っていったところもあるようで、一概には言えないのは確かです。

 

その後、室町時代になると庶民の間にも名字を持つことが増えてきます。

戦国時代まではそれを禁止する勢力もなかったのですが、江戸時代になり幕府は庶民の名字を制限するようになりました。

それでも庶民は公称することはなくても家の称号として名字を守っており私的な場では使っていたようです。

 

明治時代になり庶民にもすべて名字を名乗らせるようになりました。

これは徴税や兵役などの都合であったのですが、ここで名乗る名字はほとんどの場合は江戸時代を通じて伝承してきたものを使ったようです。

しかし、中には家が零落したりして名字を忘れている者もいました。彼らに変な名字を付けたということは実際に例があるようです。とはいえこういったことはごく稀なことであったようです。

 

ただし、意識的に珍姓を名乗った人々がいます。

これは僧侶たちであり、彼らは「出家」して僧侶になっているために生家の名字をそのまま付けることに対して拒否反応を示しました。

しかし、絶対に名字を付けなければならないという政府の強制があり、反発した僧侶たちはわざと珍姓を付けたということです。

そういった例では「茗荷」「観音」「文殊」「天竺」「合掌」「釈」といったものがありました。

江戸時代には多いと言っても名字の種類は1万種くらいだったということですが、それが29万まで増えたのはこの時期の動きが強かったようです。

 

海外の姓についても触れてあります。

男女別姓制度推進の立場の人たちは、「男性の家の姓に結婚した女性がすべて入るのは日本だけ」と主張しますが、実際は「家の名前」を姓としてつけることすら普遍的なことではありません。

 

姓自体がないという民族も多くあります。モンゴル人はそうです。

また、家の名を姓とする習慣を持たず、父親の名を子の名に続けて人名とする習慣の民族がマレーシア、インドなど。

そしてさらに祖父の名を続けるのがユダヤ人、アラビア人、エジプト人などだそうです。

人の名前をどのようにしたらよいか、日本とヨーロッパなど一部の事情だけで判断するのではなくもっと広く事例を集めて考えた方が良さそうです。

 

私の家も先祖は長野の山奥で住んでいたようですが、いつからこの名字を名乗っていたのでしょうか。

まあ、過去の話は調べようもありそうですが、未来の話は息子が結婚する様子もない以上見通しが立ちません。

 

 

名字と日本人―先祖からのメッセージ (文春新書)

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