新型コロナウイルス流行というものは、これまでも繰り返し起こっていた疫病流行を振り返らせるものでした。
それをこれまでの日本文学はどのように扱ってきたのか。
日比さんをはじめ文学者たちがそれぞれの専門の時代の文学に見ていきます。
現代小説にもパンデミック小説といわれるようなものがいくつもあります。
日比さんが冒頭に書いている「パンデミック小説のマッピング」というのは面白い分類でした。
挙げられているのは、小林エリカ「脱皮」、村上龍「ヒュウガ・ウイルス」、金原ひとみ「アンソーシャル・ディスタンス」、石原慎太郎「日本の突然の死」といったところから、志賀直哉「流行感冒」、菊池寛「マスク」まで含みますが、それをいかに「非現実指向であるか」、またいかに「シミュレータ指向であるか」という観点から二次元にマッピングしています。
非現実指向が一番高いのが小林エリカ、両方ともに全く低いのが志賀直哉と菊池寛といったところです。
相模女子大学教授の高木信さんが書いている文学界の情勢では面白い指摘がありました。
文学研究者、思想研究者たちの新型コロナウイルス流行に関しての反応が非常に早いことが特徴的だということです。
これは、東日本大震災後の福島原発事故についての状況とは明らかに大差があります。
震災と原発事故ではあまりにも圧倒的な状況に皆失語症になってしまったかのようだということです。
それに対し、コロナウイルスでは人々の周囲にウイルスの影がびっしりと取り巻いているにも関わらず、その死者たちの姿は全く見えず(亡くなった方々も骨になるまで会えませんでした)、それが文学の働きを強めたのかもしれません。
平安時代にも繰り返し疫病流行が起きました。
それは身分の上下を問わず、最高位の貴族たちにも容赦なく襲い掛かりました。
清少納言の枕草子には、「病は」という項目があるのですが、その中には「もののけ、胸、脚気」といった記述はあるものの「疱瘡、飲水病(糖尿病)」は全く触れられていません。
それらの病で清少納言の仕える中関白家の重要人物が亡くなり、結局はその家の没落につながったということがその記述に影響を与えたのではないかと推測しています。
現代歌壇でも短歌では多くの歌が疫病を扱っているようです。
しかし俳句ではそれがほとんど見られません。
やはり季節を扱う俳句では病気は詠みにくいか。
それでもいくつかはあるようで、
マスクせぬ春あけぼのの早出なる
咳すれば彼方此方の目をあつむ
といったものが見られたそうです。