今は学校での問題発生といえばいじめばかりのように見えますが、体罰というものがニュースをにぎわせたこともありました。
しかし今でもどうやら体罰は広く深く存在しているようです。
特に問題なのが体育関係の部活のようですが、今はストレートに監督やコーチが暴力をふるうといったことは減り、上級生が下級生にという例が多いようです。
本書著者のミラーさんは現在はアメリカの大学で日本を対象とした文化人類学を教えていますが、かつて英語補助教員として日本の地方の学校に赴任、その後日本の大学で研究を続けた経験があり、その時に様々な事例を見聞きすることがありました。
その経験から、日本における体罰というものの状況、そしてその裏にある文化的なものを考察しています。
なお、海外でも日本文化について様々な研究がなされますが、どうも多くの研究者たちは日本は特殊といった思考にとらわれることが多く、その中で暴力的な体罰というものを考える場合もそれが日本文化の奥底に根付いたものだと言われがちです。
それは日本の研究者などでも同様で、一方的な結論から逆に現実の事例を見てしまうということが見られます。
しかし日本で多くの現場を見聞きし、当事者たちの話を聞きた著者からするととてもそのように画一化した見方でまとめることはできないようです。
体罰とは日本だけのものではないのはもちろんで、欧米でもちょっと前までは広く行われていました。
いや、現在でも実際に行われている例が多く、アメリカでもアメリカ人自身が知らないこともあるようですが、学校でも体罰が蔓延している地域もあります。
しかし現代に近くなると多くの地域で体罰は禁止されることも多くなっています。
ただし、体罰とは何かという定義自体があやふやなままであり、日本でも殴る蹴るといった分かりやすい例は減少したとしても、居残りさせる、掃除をさせる、走らせるなどといったことはあり、それを体罰と認識していない場合も多いようです。
体罰を法律で禁止している国は現在では増えていますが、かつてはほとんど存在しませんでした。
ところが日本では世界的に見ても非常に早い時期に体罰禁止をうたった法律を作成しました。
文部官僚であった田中不二麿という人物が先導し1879年に公布した教育令の中で体罰禁止を定めたのですが、これは世界で6番目に早い制定でした。
しかしこの法律は実質的なものではなく、海外に向けて日本の先進性を主張したいだけの意味しかなく、実際にはほとんど何の効果もありませんでした。
その後は軍国化の流れの中で体罰も激化していきます。
終戦でいったんはそれもストップしたのですが、復興から経済成長へと進む中でかえって経済界の都合の良い人材育成という中で体罰も認める風潮となっていきます。
法律的にはずっと体罰禁止ということになっていながら、実際にはそれが行われ、問題化したとしても文部省はかえって当事者をかばうといった事例が多発しています。
体罰の調査ということ自体、政府はもはや実施していません。
その後、戸塚ヨットスクール事件や各地で体罰による死傷者が出るといった事態となり世論もやはり体罰を批判する側に傾きます。
それでも体罰は必要という意見は消えなかったのですが、生徒側が荒れるといったことになると教師側も体罰は不可欠といった風潮にもなっていきます。
さらに、政権側の管理体制強化という姿勢が強くなると体罰を黙認してでも管理徹底ということにもなります。
そのような中で体罰問題ということを覆い隠すかのようにいじめ問題に世論が向くように(向けられ?)なっていきます。
体罰に関心のある海外研究者にとって、禅の修行の中での警策によって肩を叩くという行為は日本の体罰容認の象徴のようにも見えるものだったようです。
ちょっと違うようにも思いますが。
スポーツの部活では体罰を加えられることが多いのはキャプテンや主力選手だというのが普通です。
そのため、体罰をされる方も自分は期待されているからこうなるのだと納得してしまい、被害者意識が育たないということになります。
著者は多くの日本人にインタビューをしたのですが、当の被害者の多くがそういった意識を持っていたことに驚きます。
もちろんその親たちも同様の意識であるのはもちろんです。
レギュラーでもない部員たちは体罰すら受けないということで期待されていないことが身に染みて感じるというわけです。
というわけで、著者は体罰に対する現状やそれを扱った論文や書籍、報道などを多数引用していますが、それに対してどのようにするべきかといった解決策を示すわけではありません。
どこかに最善策があるのでしょうが。