爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「世界遺産と天皇陵古墳を問う」今尾文昭、高木博志編

古墳の中には「天皇陵」などとして宮内庁が管轄し、研究者などの立ち入りも厳しく制限しているものがあります。

しかしその「天皇陵」としての認定には多くの疑問もあり、中には実在の疑わしい天皇の陵墓とされているものもありますが、その疑問を晴らすための調査すらできません。

 

ところが一方では百舌鳥古市古墳群世界遺産に登録しようという動きも出てきました。

その際、その主要な古墳の名称をなんと呼んで出願するのか。

どうやら「仁徳天皇陵古墳」などとして出そうとしているようです。

しかし世界遺産登録に際しては、「真実性」と「完全性」が求められます。

大山古墳(だいせんこふん)が「仁徳天皇陵」なのかどうか、その真実性が極めて怪しいというのが学界の常識です。

 

この本ではそのような天皇陵とされている古墳について、これまでの様々な学説の紹介、そして江戸時代末期から明治期にかけて行われた古墳の天皇陵としての認定の方法、現在の陵墓の公開の状況、教科書での扱われ方などについて、専門の研究者が解説しています。

 

太平洋戦争敗戦後に古代史研究についての政治的な束縛が無くなったかといえば全くそういうことはありませんでした。

それまでの天皇陵として治定されていたものは相変わらず触れることもできないままでした。

それに異議を唱えだしたのが1965年に当時同志社大学教授だった考古学の森浩一だったそうです。

考古学的知見から天皇陵と言われていた古墳に疑問を発し、さらに古墳の呼び方も天皇名をつけるのは間違いということを主張しました。

地名を基本として、仁徳陵は大山(だいせん)古墳と呼ぶべきといった主張です。

 

それが大方の学界関係者にも受け入れられ、現在では多くの教科書でもその原則が生かされています。

 

ところが世界遺産登録を目指す中で「仁徳天皇陵古墳」などという呼称が使われるとどうなるのか。

混乱が広がるばかりでしょう。

 

なお、現在の天皇陵を定めるに至った江戸時代末期からの研究者の方法は、文献もほとんど無い中で現在の地名と天皇の本名とを無理やり結びつけるといったもので、多くの疑問点をはらんでいます。

考古学的な遺物の年代検討もおろそかにされており、明らかに年代の順序が違うものも多くなっています。

このような状況ではとても世界遺産などにできるはずもないといったところでしょうか。