著者の福永さんは、大学で中国文学を学んだあと高校の教員をされるかたわら、古代史について研究をするという、市井の古代史家という方です。
福永さんの研究手法は、万葉集を主な対象としてその一言一句までを詳細に検討していき、そこには必ず真実の歴史の片鱗が隠されているものと信じてその他の史料と突き合わせていくというものです。
したがって、通常の歴史家のように文献資料とともに考古学的発掘史料も合わせて検討するということは一切なく、倭歌としている万葉集の歌の言葉のみをとことん考えていくというものです。
歴史学としての妥当性は薄いでしょうが、その姿勢にはかえって清々しさを感じるほどです。
本書は、著者が様々な方向から万葉集というものを考えてきたその道筋に沿って書かれており、まとまりはあまり無いようですが、各所に独自の観点を見せています。
「やまと」に係る枕詞として、「そらみつ」というものがあります。
これには数種の漢字が当てられていますが、多いのは「虚見津」というものです。
ここから、「そらみつ」という言葉は天孫降臨として半島より九州北部に渡ってきた天皇家先祖の業績を示しているとしています。
なお、続けて「あきつしま」についても、神武天皇が豊の国に東征して生まれた「やまと」を指しているとしています。
「飛ぶ鳥の明日香」という句から、飛鳥を「あすか」と読むようになったということは間違いのないことのようですが、これを取った「飛鳥川」という川についても多くの歌が詠まれています。
しかし、この現在の奈良県明日香村付近を流れる「飛鳥川」を見ても、これらの歌に描かれたような光景はありません。
歌には、「飛鳥川は流れが変わりやすく、淵や瀬が定まらない」と詠まれているものが多いのですが、現在の飛鳥川は小さな小川で流れが変わるということもなさそうです。
そこで、著者はこれを北九州に求めます。
福岡県の香春岳を著者は三輪山と考えているのですが、そこに近い現在の犀川(狭井川)がこの「飛鳥川」にぴったりだろうと見ています。
他にも、書名ともなっている仁徳天皇にまつわる物語の再考なども綴られていますが、あまりにも細部に渡る考証が多く、どこがどうなっているのやら、ほとんど分からないものでした。