爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「ギリシア文明とはなにか」手嶋兼輔著

西洋文明の古典としての地位は確固たるもののような古代ギリシア文明ですが、その姿は意外なものかもしれません。

 

エーゲ海沿岸の地域にインドヨーロッパ語族の集団が北方から流入してきたのは紀元前2000年頃のことでした。

その頃の地中海世界はどうであったのか。

すでに文明化して長いエジプトの存在感は圧倒的でした。

さらに現在のシリアやレバノンの地域にはフェニキア人が多くの街を作り、活発な公益活動をしていました。

その当時のギリシアの地域はそのような先進地域と比べ何の魅力も無い場所でした。

農業の生産性は低く、貧乏を運命づけられたようなところで、海に進出しようとしても富裕地帯はフェニキア人が圧倒し、残っているのは北側の生産性の低いところばかりでした。

 

そのような状況を大きく変えたのがペルシア帝国の成立と拡大でした。

メソポタミアとエジプトの全域を統一し小アジアからマケドニアまでを勢力下に入れたものの、そこでギリシアと対することになります。

 

その少し前、エジプト第26王朝、通称サイス朝の頃、前7世紀中葉に略奪を業とするギリシア人の一団がエジプト王朝に傭兵をして雇われたという記録があります。

その当時はギリシア人の第一次海外進出期とも言える頃だったのですが、エジプトにおいてはまともな交易などは相手にされず、海賊として略奪に精を出していたようです。

その彼らの腕力に目を付けたエジプト人が金で雇って傭兵化したのでした。

その後も多くのギリシア人が傭兵としてエジプトなどで活躍していきます。

 

その頃は経済的な繁栄も文明もエジプトはギリシアのはるか上にあり、傭兵としてやってきたギリシア人はその文明に魅了されます。

これがギリシアの文明化の始まりだったのでしょう。

 

しかしギリシア本土の様子はまだ昔のまま、小さなポリスに分れ相争っていました。

そこにやってきたのがペルシア帝国の派遣軍でした。

このペルシア戦争についてはギリシア側の記録しか残っていないため、その視点からしか見ることができませんが、ギリシアとしては最大の危機だったとしてもペルシア側がそれほど重要視していたかは疑問です。

いちおうペルシア王自らが率いた陸海軍が来襲しますが、王も兵も何のためにギリシアなどを攻めるのか、誰も理解できていなかったでしょう。

政治的にも経済的にもほとんど価値のないギリシアを取ったとしても大した実入りにもなる見込みはありません。

ただただ、ペルシア王の支配欲、征服欲だけのために来襲したのでした。

対するギリシア人たちは自らの民族の危機ということでポリス間の抗争も休止し最大限の戦意を高揚させて立ち向かいました。

その結果、ペルシア派遣軍を全滅させた大勝利ということになっています。

しかしペルシア側は国全体から見ればわずかな兵力を失ったのみで敗北とも認識していなかったかもしれません。

これはちょうど日本にモンゴルの率いる軍が来襲した元寇と同じようなものかもしれません。

九州北岸で迎え撃ち台風のせいもあって派遣軍は全滅しましたが、元にしてみれば派遣軍のほとんどは征服した高麗と南宋の兵士であり、海に沈もうがほとんど痛くもなかったでしょう。

ペルシア戦争というものもそのような性質のものでした。

 

しかし戦争の強さということにかけてはギリシア人の勇名はとどろいたようで、その後はペルシア帝国内にもギリシア人傭兵が多数存在することになります。

その中でもペロポネソス半島中央部の山間部のアルカディアは強兵で有名でした。

アルカディアと言えば現在では桃源郷のようなイメージで使われていますが、当時は山間の特に貧しい地域で、主な輸出品は傭兵しかないというところでした。

そのため、ギリシア人の中でも特に「アルカディア傭兵」というのは強いことで有名でした。

エジプトやペルシアなどだけでなく、ギリシア国内の各ポリス間の紛争の際にもアルカディア傭兵は双方に雇われるという状況だったようです。

 

その後、マケドニアから起こったピリッポス2世、そしてその子のアレクサンドロスによりギリシア全土の統一、さらにエジプトからペルシア、インドの手前まで至る大帝国樹立となります。

しかし軍事力では優越したギリシアも文化や経済繁栄ではペルシアなどの足元にも及ばない状態でした。

そのため、アレクサンドロスやその後継者たちによるヘレニズム世界の樹立といえど各地の政治や経済の状況をギリシア化することなど思いもよらず、ただただ各地の王にギリシア人が取って代わっただけでした。

 

その後はギリシア人の戦闘力は衰え文明の担い手としての名声だけが残っていきました。

古代ローマギリシアを圧倒した後も、文化的には高いものとされローマ貴族の家庭教師などとしての雇用は多かったのですが、その実態は空虚であるとして前3世紀の政治家・文人として有名なカトーはギリシア文化人のローマ来訪を大歓迎するローマ人たちを冷ややかに批判しています。

しかし、「議論ではギリシアに太刀打ちできない」というのも事実だったようです。

 

こういった歴史上のギリシアはまた現代のギリシア像とも違うようです。

それを整理して理解する必要があるのでしょう。