風土記といえば現代でも各地の風物を記したものという意味で使われることもありますが、もちろんその発祥は奈良時代に朝廷の命令で各国に作成させた地域の文物や地誌をまとめたものです。
和銅6年(723年)に各国に風土記編纂の命が下されましたが、その後数十年かけて作られたようです。
しかし、そのほとんどは現存せず、わずかに五風土記のみが残っており、それは常陸、出雲、播磨、豊後、肥前の五か国です。
その中でも出雲風土記はほぼ完本の状態ですが、他の四か国は逸失部分が多くわずかな部分のみが残存しています。
なお、その他の国の風土記でもそこからの引用文章があちこちに散見されることがあり、「逸文」と総称されますが、それはかなりの数が知られています。
風土記編纂にあたっては各地の国司が在地の古老などの伝承をまとめたのでしょうが、ちょうど同じ時期に古事記・日本書紀といった中央政府の文書もまとめられており、その内容と風土記の内容が細部において食い違いがあるということも散見されるようです。
こういったことを古代史研究者たちが検討しており、そういった点についての解釈が実は中央政権が全国の伝承を統一していった足取りとも見られるということです。
本書はそういった内容を様々な方向から検討しており、「神々の群像」「神社」「タブーと宗教」「生活と風習」「産業と技術」「天皇」「天皇とされた人びと」「周辺人物」などにまとめられています。
「天皇とされた人びと」という項目は興味深いもので、中央政府の見解として天皇即位した人物たちは決定されているのですが、地方にまではそれが徹底せず、地方伝承として天皇と扱われている人びとがかなりの数になるようです。
ヤマトタケル、神功皇后、聖徳太子、市辺の押磐の皇子など、正式には即位したことになっていなくてもそれが地方には伝わっていたのでしょうか。
奈良時代には仏教が広まり始めていたとはいえ、中央はともかく地方にはまだなかなか普及していなかったようです。
そのためか、各国の記述でも神社については豊富な量の記事があったものの、まだ仏教関係の記述は限られたものでした。
寺院だけは建造されても、僧尼が揃わないということもあったようで、出雲風土記には寺に僧侶がいるかどうかも明記されています。
豊後風土記には、「僧尼のいる寺」として2か所だけが記載されています。
現在でも夏の神社や寺院の行事として「茅の輪くぐり」というものが行われています。
この神事のルーツとして蘇民将来伝承というものがあるのですが、これが備後風土記に記されています。
その伝承にはかなりの矛盾点がありはっきりしないことが多いのですが、腰に茅の輪を付けることで難を防ぐということが示されており、今の神事とのつながりが考えられます。
温泉について記述されているものもあります。
出雲風土記にはすでに現在の玉造温泉の記載があり川辺の温泉湧出地に多くの老若男女が集まるということが書かれています。
また豊後風土記にも温泉記述があり、それが別府温泉のことでした。
血の池地獄と思われる赤い湯の色、そして鉄輪温泉の間欠泉も描かれており、湯が6mあまり噴き出している様子が示されています。
もしも全国の風土記がすべて残されていたなら、多くの疑問点が解消されていたのかもしれません。