「貨幣の条件」といっても経済学的な本ではなく、タカラガイという貨幣としても使われていた貝殻の文明史というものです。
著者の上田さんは中国社会史が専門という歴史学者で、とくに中国西南部の雲南地方やチベットなどを探訪されたのですが、そこでタカラガイが珍重されていることを目にし、さらにそれを貨幣として使っていた時代もあったということで、貝殻を貨幣として使うとはどういうことかということを考察したそうです。
中国の古代文明でもタカラガイなどの貝殻が珍重され、貨幣として使われたという伝承があります。
そのために、貝という部首を含む漢字が数多いということが言われています。
実際に中国古代文明の遺跡からはタカラガイが数多く出土し、それは殷(商)王朝時代に先立つ、おそらく夏王朝時代以前からの実力者の墓に見られ、商王朝時代には最高潮となります。
ただし、どうもそれを貨幣として使っていた形跡はなく、権力者の威信を示すための財と見られていたようです。
タカラガイは日本では子安貝とも呼ばれますが、タカラガイ科の貝の中でも珍重されたのはハナビラダカラとキイロダカラに限られています。
その分布は西太平洋からインド洋沿岸の地域であり、それ以外の地域では採れません。
しかし特にタカラガイを珍重するタカラガイ文化圏とも言うべき地域は東アジアの雲南やチベットから南北に延びる地域、そして次いでタカラガイに価値を認める地域はその北西部に広く広がり、アフリカ北西部からユーラシア大陸内部まで及んでいます。
いずれもタカラガイを豊富に採取できる地域からはかなりの距離があり、相当な労力をかけて運ばれたことになります。
中国本土ではタカラガイを貨幣として使った形跡は見られませんが、その南西部の雲南の諸王国では実際に貨幣として使われていました。
これは中国では元の時代からの記録にもあり、マルコポーロやイブン・バトゥータの記録にも残されています。
その使用はかなり新しい時代まで続きますが、17世紀ころに貨幣としての価値を失います。
それは、主な産地であったインド洋のモルディブがオランダ東インド会社の勢力下に入り、採れたタカラガイがヨーロッパに運ばれるようになり、またもう一つの供給地、琉球が日本の薩摩の支配下となって中国に運ばれることがなくなったため、貝の供給が続かなくなったためと見られます。
経済人類学の権威、カール・ボランニーはタカラガイの貨幣の利点を次のように列挙しています。
1,目で見ることができる単位であること、2,微量な価値の単位であること、2,模造されないこと、4,重量や容積で計ることができること、5,長期保存できること、
このような性質を持つため、貝の採取地から遠く離れた中央アフリカのダホメ王国でも貨幣として使われました。
確かに誰でも海に行けば採れるようなものでは貨幣とはならなかったでしょう。
貝殻が貨幣として価値を持った地域と時代があった、夢のような気もします。