爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「マヤ・アンデス・琉球 環境考古学で読み解く『敗者の文明』」青山和夫・米延仁志・坂井正人・高宮広士著

考古学で絶対年代を測定するということは簡単ではなく、放射性同位体を使った測定でもその同位体の比率というものが「常に一定」であることを仮定して測定していたのですが、実際はかなりずれがあることが分かってきました。

そんな中で、福井県水月湖という湖に堆積した物質が極めて安定して積み重なっていることがわかり、それを基準として同位体濃度を補正するということが可能となりました。

この件について記した本はかつて読みました。

「時を刻む湖 7万枚の地層に挑んだ科学者たち」中川毅著 - 爽風上々のブログ

 

こういった場所が他には無いのかということを世界中で研究者たちが調べていったのですが、今回の対象となった、マヤ、アンデス琉球といった地域でも使える場所が発見され、それを用いてこれまでの歴史記述に書き換えを迫るものとなりました。

 

対象となった地域は、環太平洋ということで共通であるという他に、他の強力な文明によって占領され文明自体を奪われたという、言ってみれば「敗者の文明」という共通点があります。

しかし、それぞれの文明の中には現代に活かすことのできるものを含んでいるようです。

 

マヤ文明は、その紹介の初めの頃には「謎の文明」といった言い方がされていました。

しかし、その実像はその後の調査では決して謎などではなく他の大陸の文明とは孤立して発達したために違う点は数々とあるものの合理的なものであることが分かってきました。

この文明は独自の発達を遂げたために他の古代文明と同じように「一次文明」と呼ぶべきものです。

金属器の発達がなかったので、「究極の石器文明」となりました。

同じアメリカの文明ではあるものの、アンデスと異なり非常に複雑なマヤ文字を発達させました。

牛や馬などの大型動物を輸送に使わず、車の発達もなかったために、完全に人が徒歩で移動するのみでした。

そのために中央集権化が進まずに大帝国は発達せず、小王国が分立する状態が長く続きました。

一般には9世紀ころにマヤ文明は崩壊したと考えられていますが、実は多くの王国が衰退したもののいくつかは存続しており、形と場所を替えて続いてしました。

この辺の事情は、セイバル遺跡の近郊にあるペテシュバトゥン湖とラス・ボサス湖から得られた年縞堆積物の解析で環境変化を見ることによって裏付けられました。

気候的には干ばつなどの証拠は得られず、人口過剰と環境破壊によって諸王国の衰退につながったようです。

 

現在のペルーに栄えたアンデス文明はその最後はスペインによる破壊によって葬られましたが、ティティカカ湖の湖沼堆積物やケルッカヤ氷床のコア分析によると、繰り返し干ばつが襲っていたようです。

ここには、太平洋のエルニーニョラニーニャの登場により大きな気候変動が繰り返され、それによって農業ばかりでなく沿岸でのイワシ漁への影響も文明の繁栄と衰退を及ぼした原因となっていました。

 

琉球の歴史は旧石器時代から貝塚時代と呼ばれる採集文化に移行しその後長くその状態が続いた後に、グスク時代という農耕文化が始まったと言われています。

しかし、そこには大きな疑問があります。

沖縄は石灰岩が多いために人骨が残りやすいという特性があり、これまでにも発掘されて昔の人骨が発見されるということが起きています。

1万年以上前の人骨も見つかっていますが、こういった「島」への狩猟採集民の移住ということは、世界的に見てもほとんどありません。

これは、島へ渡る舟の移動の技術が無かったということではありません。

すでにオーストラリアには舟で渡った人々がおり、同じような技術は持っていたでしょう。

しかし、問題は渡った先の食料となる動物や植物の量にあります。

狩猟採集民の必要とする食料源はかなりの量であり、それが小さな島では確保できないということです。

半径10kmの地域で暮らせる人の集団のサイズはせいぜい25人から50人程度であり、そこから見ると沖縄の本島全体でも暮らせる人数はその数倍にしかなりません。

その程度の人数ではそこで安定的に暮らしていくことはできず、沖縄でも狩猟採集民は安定的に継続して暮らしていたのではなく、次々と入ってきては死に絶えたのではないかという疑いも生まれます。

 

貝塚時代と呼ばれる時代には、それでも安定的に継続して居住していたようです。

その食料としてはリュウキュウイノシシも狩られましたが、それ以上に海での魚介類の採取が重要だったようです。

 

その後、農耕を始めると極めて短時間に人口が増加し、社会が複雑化しグスク時代となりました。

そこには中国や日本列島との交流の影響もあったようです。

 

なお、琉球の環境史研究のための年縞堆積物は、他の地域のように湖沼は期待できなかったのですが、本島大宜味村の塩屋湾と羽地内海という内海で見つかりました。

そこには波の影響は少なかったのですが、数回の大津波の影響は見られました。

沖縄本島には600から800年に一度大きな津波が襲っていたようです。

 

マヤ・アンデス・琉球 環境考古学で読み解く「敗者の文明」 (朝日選書)

マヤ・アンデス・琉球 環境考古学で読み解く「敗者の文明」 (朝日選書)