爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「貝と羊の中国人」加藤徹著

著者の加藤さんは中国文化の研究者で特に京劇が専門ということです。

中国社会や中国人というものを考察してきたというわけではないようですが、中国にも長く滞在しておりそこで見聞きしたことから中国について考えるようになりました。

 

その見方は一般的なものとは少し違っていてそれが妥当かどうかということは分かりませんが、面白いとは言えるでしょう。

 

各章によりかなり取り上げるテーマが異なります。

「貝」と「羊」について

流浪ということ

人口から見た中国史

ヒーローの条件

など、とくに「中国社会の多様性」ということは繰り返し語られ、一つ一つの社会現象を取り上げてそれだけで中国が分かったようになるのは危険だということを主張しています。

 

「貝」と「羊」というものも判っているつもりでしたがあらためて示されるとなるほどと感じるものです。

中国の古代王朝は夏・殷(商)・周と代わりましたが、夏は実在も疑われるものの殷・周は考古学的にも文献的にも多くの資料が残っています。

多くの研究から殷は東方から起こり中原に進出し、周は西方からと考えられています。

その生活や産業も大きな違いがあり、殷は海に近く海産物にも富んでいた地域から、そして周は牧畜の地域からやってきました。

貝は殷が持ってきた文化でした。

子安貝などを貨幣の代わりとして使いましたが、そのため「貝」がつく漢字は財政や貨幣に関わるものなどに多く残っています。

一方、羊の放牧が主産業であった周がやってくると、「羊」が含まれる漢字が多く作られます。

遊牧民族一神教を作り上げやすいということは他の民族を見ても共通ですが、周民族も「天」を唯一の神とする宗教心を持っていました。

そのため、「羊」を含む漢字も観念的な価値観を示すものが多いということです。

義、美、善、祥などがそれに当たります。

そのような違った環境からやってきた民族が結局は融合し漢民族となっていきます。

その時代から中国の多様性は形作られ今に続くということです。

 

 

日本語は漢字を取り入れて表記に使ってはいますがその構造では中国語とは全く異なります。

助詞を多用するということでは世界的に見ても日本語はかなり分析的な言語だということです。

一方、中国語では助詞などはなく何通りにも解釈できる内容が一つの表記で済まされます。

「私は餃子を食べる」は「我喫餃子」であり逐語的に訳すと「私、食べる、餃子」です。

また「私は食堂で食べる」は「我喫食堂」であり、これは「私、食べる、食堂」です。

この二つは語系は全く同じですが、もちろん「食堂」を食べるはずはなく「食堂で」食べるのは当たり前です。

このようなことを言い分けるということはしないで内容で判断してしまうというのが中国語の特徴であり、これは古代から変わっていません。

これを著者は「大づかみ式合理主義」と呼んでいます。

さらに中国語には動詞の活用ということもありません。

食べる「喫」という動詞は原形も現在形も過去形も未来形もすべて「喫」の一字だけです。

このように中国人は言語だけでなく思想や宗教でも分析的合理主義を嫌い「大づかみ式合理主義」を採ってきました。

インド仏教の分析的思考を示す教学は中国では発展せず、ただ禅宗だけが生き残りました。

不立文字を身上としひたすら座禅と念仏というシンプルなものだけが中国人の好みにあったのだそうです。

 

中国の人口の変動を見ると、「人口崩壊」というような人口の急減という事態が何度も起きています。

それに対し日本は停滞することはあっても人口の急減といった過酷な事態にはなることが少なかったようです。

ただしそこには江戸時代に見られたような堕胎や嬰児殺しといった風習が隠れていました。

中国ではそれがあまり見られなかった代わりに飢饉による大規模な餓死の発生は避けられませんでした。

そのためか、「人命の値段」が暴落する事態も多かったようです。

 

結びで書かれていますが、中国人の特異性ということばかりに目を奪われると意外に日本人とそっくりという点に気づきにくいようです。

著者の専門の京劇の登場人物などを見ても日本のかつての演劇に出てくる人物とそっくりなことが多いようです。

人情の機微ということも重視されるのが中国の実相でもあるということです。