爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

人とのつながりについて その3

その3は「社縁」というものについてです。

 

1,2の血縁、地縁というのは普通に使われる言葉ですが、社縁というのはあまり使われないかもしれません。

しかし、最近までの日本では社縁、すなわち「会社での人とのつながり」というものが非常に大きいものでした。

 

高度成長期からその後しばらくまで、会社に勤めている人はその会社の社宅に住み、朝から夜遅くまで会社で働き、休日まで会社の行事に駆り出されるというのが普通のことでした。

そのため、会社内での人のつながりというものは、親族や家の周囲に住む人とのつながりより大きなものだったのでしょう。

いや、実はそういった血縁・地縁という人間のつながりを徐々に社縁が浸食し取って代わっていったという歴史の動きだったようです。

 

私も昭和53年(1978年)の入社で、さすがに最盛期のように会社一筋といった雰囲気は低下はしていたのでしょうが、それでも独身寮や社宅は完備、年に一度の社内慰安旅行は盛んで、他にも終業後に会社内で対抗スポーツ大会まで開かれるという、会社漬けの生活でした。

そのためか、付き合う人もほぼ会社内の人ばかり、社内恋愛から社内結婚という人も多数でした。(実は私もそうです)

 

しかしこういった会社の雇用を前提とした社会構成というものは、労働環境を劣悪化し人件費コストを削減しようとする経済界の動きでどんどんと劣化していきます。

正社員を削減し契約社員、パートアルバイトといった人たちに代えていったのです。

私の職場でもまず最初に女性正社員は新卒を採用せず現職の社員は退職を待つということで数を減らしていき、その代わりにパートを雇うというやり方でしたが、それでもあっという間にすべてパート社員ということになりました。

そうなると社員間の付き合い方も変わらざるを得ず、それまでは普通にやっていた懇親会やスポーツ大会などにもパートさんはあまり出ないといったことになっていきます。

これが社縁というものを崩壊させていった実情だったのでしょう。

それは私が会社を去って以降、さらに激化しているようですがもうあまり詳しくは分かりません。

 

血縁・地縁をどんどんと浸食し代替していった社縁というものが、あっという間に崩れていきますがだからといってまた元のように血縁・地縁に戻るということもできません。

結局「縁」というものが無くなる人が増えていったということです。

個人主義が強まったなどと言われますが、実際には縁をつなごうとする人々を大きな力が振り回して人と人とのつながりもバラバラに切ってしまったのです。

社会の力もどんどんと減少していきます。

あちこちで大きな災害が起きていますが、その時に地域のつながりが力を発揮したという事例がいくつも報告されます。

しかし、辛うじて地域のつながりが維持されている(主に高齢者によって)地方ならいざしらず、すでにそれが崩壊している大都会で大災害が起きたらどうでしょう。

この次の首都圏直下型地震ではどうなるか。

暴動略奪横行の海外の災害と同じような姿が見られるかもしれません。

 

血縁・地縁が無くなり、社縁すら崩壊していく日本の社会に残るのはもはや「金縁」だけかもしれません。

血縁だよりしかなかった高齢者介護も介護保険制度ができて介護施設が乱立、金さえあれば介護が受けられるということになりました。

もう高齢者はどこまで自宅で生活できるかを見極め、だめなら介護施設という道しかなくなりました。

しかしそこにも金の問題がついて回り、金があれば良い所に入れるがなければどうしようもないということになります。

皆が介護を受けるということで介護保険料も徐々に上昇し、最初の数倍に上がっているとか。

今こそ政治の力で社会をどうするかということを考えていかなければならない時なのですが、防衛力に大金を使うなどと言う政党にまだ唯々諾々と従う人ばかりです。

こんな腐れ切って何の魅力もなくなっていく国にそのような防衛をする価値があると思っているのでしょうか。

某仮想敵国もこんな日本に高価なミサイルや爆弾を落とす価値も見いだせないでしょう。

 

最後は暗い未来だけの話になってしまいました。

せめて少しでも明るくするためには何が必要か。

考えていく必要があるでしょう。