内田樹さんのブログ、「研究室」より。
「歌わせたい男たち」という戯曲が14年ぶりに上演されるということで、内田さんに国家国旗についてコメントが求められたそうです。
この戯曲は永井愛さんという劇作家で劇団「二兎社」を主宰している方が書いたもので、都立高校の卒業式で国歌斉唱を押し付けたい校長と拒否する教師との対立を描いたものだということです。
もちろん「歌わせたい」のは校長に命令している政府や自治体ということでしょう。
それについて内田さんはご自身の武道道場での宗教儀礼から話を始めます。
そこでは祝詞や般若心経などを唱えますが、それはあくまでも自分自身がその「場」というものに対しての儀礼を示すものであり、他に強制することはありません。
これは、野球の試合の前に選手がグランドに一礼するのとも共通することで、場に対する敬意というものです。
しかし、国旗国歌に対する儀礼というものは、そのような「場に対する敬意」とは異なるということです。
国民であればこのような儀礼、すなわち国家に対する敬意というものは必ず持つべきであると政治家や官僚は思っているのでしょうが、内田さんの道場に通う人々は自由意志でそれを決めて来ているのであり、日本国民のようにただそこに産まれたというのとは違います。
しかも今の日本の国旗国歌は「これでよろしいでしょうか」などと尋ねられたこともなく決まっています。
そんなものは認められないという権利は国民には存在するということです。
最後のところの内田さんの意見は傑作です。
ことは原理の問題ではなく、程度の問題なのである。この先、日本がしだいに「ろくでもない国」になっていったら、ある日私は国旗に礼するのも国歌を歌うのも止めるかも知れない。「昨日まで歌っていたのに、どうして今日から歌わないのだ」と誰かに詰問されたら、「境界線を越えたからだ」と答えるだろう。「もう歌うのが嫌になった」と。
私はもうすでに「日本はろくでもない国である」と感じていますので、国旗国歌に対する敬意もありません。
文中ではアメリカの事情も述べられていますが、やはり国というものの出来方が日本とは対極にあると言えるアメリカを見ることは必要でしょう。
アメリカでは「国旗を損壊する自由」も国民にあるそうです。
それを判断した最高裁判事は「痛恨の極みではあるが、国旗はそれを侮蔑し手にとる者をも保護している」という意見を付したそうです。
彼は「アメリカ国民が星条旗に敬意を持つことを願っているがそれは強制によるべきではない」と考えたということです。
国家に敬意を払うことを強制するということがどういうことなのか。
それすら考えられないものが政治をしているということなのでしょう。