内田さんのブログ「内田樹の研究室」はしばしば拝見してそれを種にこちらのブログなども書いていますが、そのブログやあちこちに寄稿したものなどを中心にしてひとまとめにしたのが本書です。
対象期間は2020年あたりのようですので、文章の中にはすでに目にしたものもありますが、かなり加筆したということ、そしてテーマごとに配列したということで、以前に見た時とは印象も相当異なるものとなっており、もちろんこちらの方がすっきりとして頭に入りやすいものとなています。
大きなテーマ4つにまとめられていますが、それが「コロナ後の世界」「ゆらぐ国際社会」「反知性主義と時間」「共同体と死者たち」というものです。
本書最後は亡くなられた人びと、それも内田さんの少し年上で若い頃から大きな影響を受けていた3人の方々の追悼文で締められています。
大瀧詠一、橋本治、加藤典洋のお三方ですが、いずれも70代に入ったばかりでの死去ということで内田さんの衝撃も大きかったのでしょうか。
”「生きている気」がしなくなる国”という文は、安倍政権7年8か月を評したものですが、短い文章でその期間の意味を言い表し尽くしたとも言えるものでしょう。
日本はまだ経済力もそして軍事力でも世界の中では大国と言えるものですが、しかし世界から誰も日本に「リーダーシップ」を期待してはいません。
「人間は他者からの経緯を糧にして生きる存在である」というのは人間性の真実の一つなのでしょう。
しかし世界のどこからも「真率な敬意」を日本に寄せる人は居なくなってしまった。
それが安倍政権の最大の罪だということであり、それを否定できる者はいないでしょう。
コロナ禍で多くの学校がオンライン教育を実施するようになりました。
これは特に大学ではその比重が高くなっています。
それに対する学生や教官の不満というものも大きくなっていますが、しかし現実問題として「脱落する学生が少なくなった」ということも現れているようです。
これまでの大学教育では「大学は学生が主体的に学ぶ場である」ということから、学生に教員側が「手を差し伸べる」ということがあまり無いところでした。
そのために五月病という言葉の通り、その時期になると学校に来ることができず脱落していく学生がかなりの割合に上ったのですが、それがオンライン授業になることでかなり減少したそうです。
学生が教員側から「自らを認識してもらっている」という意識を持てるようになったということがそれにつながったということです。
「日本のイディオクラシ―」という文は日本の政治風土というものを的確に表現しています。
イディオクラシ―というのは日本語で言えば「愚者支配」というものですが、指導者は知的に無能でも良い、いや無能であることが指導者の条件ではないかというのが日本の政治だということです。
すでに200年前にフランスのトクヴィルはアメリカの政治状況をつぶさに観察し、時の大統領アンドリュー・ジャクソンが性格は粗暴、能力は中程度であることを見、それでもアメリカを率いる、というよりだからこそ選ばれるというのがアメリカの政治であると述べています。
それにさらに輪をかけているのが日本の現在の政治状況です。
国民全体の利益を配慮する能力というものを完全に失い、「身内の福祉」だけを配慮するような指導者が政治のトップに座り続ける。
そして国民の多くもそれを支持している。
国民が望むのは「国民の利益を考える指導者」ではなく、「指導者の身内に入れてもらう」ことだけだということです。
コロナ禍だけが理由では無いのですが、かつてはあった風習が消えていくということがあります。
「共食・共喫」儀礼というものがありました。
日本でも少し以前の社会では共に食べ共に飲む、そして共に「喫煙する」ことも重要な儀礼であり、それをすることによって共同体に共に居るということを確認し合いました。
これは日本だけではなく世界中の集団で見られたことで、「共食儀礼」「共飲儀礼」を持たない社会集団はないと言い切っています。
さらに多くの集団では「喫煙」をも共有することが儀礼として行われていました。
北米の先住民がそれを守っていたのは西部劇などを見ても明らかです。
これは「煙」「液体」「食物」などの「分割できないもの」を共有することが友愛の儀礼として認識されていたからだそうです。
しかし現代ではそれを徐々に拒絶するような風潮になってしまい、それがコロナ禍で完全に息の根を止められました。
今後、人々はどのようにして他者との友愛というものを確認していくのか。
「そんなものは要らないというならどうぞご勝手にと言うしかない」と突き放していますが、おそらくそうなれば社会の崩壊になるのでしょう。
どの文章も光る部分があちこちに見られるものでした。