爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「真実の日米開戦 隠蔽された近衛文麿の戦争責任」倉山満著

日本人の多くがアメリカにはかなわないと考えていたはずなのに日米開戦に至った。

そこには軍部の暴走があったとか、色々な解釈がされています。

著者の倉山さんは自由な立場からの考察を重ね、やはり近衛文麿の責任が強いものとしています。

ただし、その書き方は非常に刺激的でずばりと切り捨てるという感覚ですので、見ていて面白くもあり、また何とも言いようがない不安感も感じさせるものとなっています。

 

近衛文麿が戦争に向かう時期に政権を担い、そこでかなり大きな役割を果たしていただろうということは分かりますが、それにしても近衛とは何者だったのか、あまり良くは知らなかったことに唖然とする思いです。

近衛家と言えば藤原一門でも最高の名門です。

明治政府でも重く用いられ、父の篤麿は貴族院議長も勤めました。

文麿は学習院から一高、東大、京大と渡り歩き経済学や法学を学びますが、あまり熱心な学生ではなかったようです。

しかし木戸幸一、原田熊雄と知り合い生涯の友人となりました。

文麿は政治とは近くはなかったのですが、原田が西園寺公望の秘書、木戸が内大臣秘書官長となってから政界に近づくこととなります。

25歳になると貴族院令により自動的に貴族院議員となりさらに内務省に就職します。

さらに40歳で貴族院副議長、2年後には議長となっていきます。

家柄と性格、職務の上からも文麿は多くの人と近づきますが、本人が主体的に人々を引っ張るというよりは周りの人々から影響される一方だったようです。

その結果、倉山さん曰く「文麿は4重人格です」

つまり、体制派であり、自由主義者であり、国粋主義者であり、共産主義者でもある。

本人の意識の中ではそれらの良いところだけを取って行動していくつもりだったのでしょう。

しかしその混乱したものが日本を引っ張る立場になってしまった。

その混乱が国策の迷走を招き、正論の通らない時代としてしまった。

この意味で日米戦争は近衛文麿の戦争であり、彼の責任だということです。

 

日清日露戦争に勝ち大国となった日本に対し、大陸は悲惨な状況でした。

国粋主義者と呼ばれる人々は、同時にアジア主義者ともなっていきます。

その当時のアジアの状況からは多くの問題の根本は白人社会にあるものと見えました。

そのため、日本国のみのことを考える、現代の国粋主義とは異なり、どうしてもアジア全体を連帯し白人に対するという考えに至りました。

アジア主義とは正反対なのがナチズムでした。

その国粋主義を飲み込んだ近衛が後にナチズムとの同盟を行なったのは混乱のためでしょうか。

 

近衛が貴族院議長に就任する以前の日本の政界には「憲政の常道」というものがあり、憲法上の規定はなかったものの、衆議院で多数を占めた政党の長に天皇が組閣を命ずるという慣例が続いていました。

しかしその頃には軍部の権力も増し、憲政の常道が壊れかかっていました。

そのため、少壮の貴族院議長、近衛に期待が集まるということになってしまいました。

その年に世界の指導者も交代しています。

ドイツではヒトラーが政権につき、アメリカではフランクリン・ルーズベルトが大統領就任となります。

そのような世界の変動に対し政党内閣は対応できないとの烙印が押され、世論も混迷します。

近代史通説では軍部が政治を引っ張ったと言われていますが、そもそもその当時の軍部も海軍と陸軍の対立だけでなくそれぞれの内部でも勢力争いが続き、とても政治に介入できる状態でありませんでした。

そんな中で一見中立のように見える近衛文麿待望論が広がることとなりました。

紆余曲折がありますが、結局は元老西園寺の最後の仕事として近衛内閣が成立します。

しかしその閣僚はどっちつかずの無能ばかり、どう転んでも良くはならないという面々でした。

 

その直後の1937年7月に盧溝橋事件が起きます。

これは日本陸軍の侵略の意図があっての謀略だと言われますが、陸軍はそのような状況にはありませんでした。

日本政府との関係が悪化し予算が削減されようとしていました。

陸軍の上層部もそろって病気、さらに陸軍大臣も決定力皆無の杉山元ということで、とても意図的な侵略のできる体制では無かったのです。

しかし停戦の交渉を妨害し続けされたのは近衛でした。

これを著者は「近衛の暴走、広田の錯乱、陸軍の混乱、海軍の卑怯」と言い表しています。

 

1939年には中国との戦争は泥沼化しています。

中国政府は四川省に退き抵抗を続けていますが、それに援助を続けていたのが英米でした。

ヨーロッパでは英独ソがみつどもえでにらみ合い、ナチスドイツは周辺諸国への侵略を始めますが、イギリスはまだそれを黙認しています。

大戦前夜という状況です。

しかしソ連はドイツとの開戦に加えて日本との対戦になるととても勝ち目がないと判断し、何とか日本とアメリカを対立させるような工作を必死で行ないます。

多くのスパイを送り込み、日米直接対決を画策し、それが奏功したのが真珠湾だというのが著者の解釈です。

 

アメリカのルーズベルトも大戦初期にはヨーロッパ戦線参戦には否定的で、もちろん日本とも開戦する気はありません。

しかしルーズベルトは狂人とも言うべき政策を次々と日本に向け、日本を対米開戦に向けさせようとします。

その当時、日本の軍略としては南方に進むしかなかったのですが、そこにアメリカとの開戦は含まなくても良かったのです。

南方のほとんどを押さえていたのはイギリスであり、アメリカはフィリピンは植民地としていたものの、ほとんど資源も無くうま味の無いところでした。

しかも大戦開戦後はヨーロッパ戦線でイギリスはドイツ相手に手いっぱいでしたから、イギリスだけであればアジアは簡単に制圧できたはずです。

しかし、そこになぜか「英米不可分」とか「鬼畜英米」といった言葉が入り込み、アメリカも一緒に攻撃しなければならないという雰囲気を作り出したのが誰だったのか。

その意図のままにアメリカを主な敵としてしまった敗けるための戦いを始めることになりました。

ここに至るのも近衛の指導力を欠き何の理念もない政権の責任だと言えるそうです。

 

近衛は終戦後、占領軍から戦犯としての逮捕状が出た時点で服毒自殺しました。

近衛がやったことはソ連の立場を強くするのに最高のサポートだったとも言え、近衛をコミンテルンのスパイだとする説もあります。

しかしそれを思えばアメリカのルーズベルトのやったことも、やる必要もない戦争を起こさせ(日本を戦争に向かわせたのも半ばルーズベルトの策略でした)多くのアメリカ人も戦死させ、さらにその結果ソ連と中国の息を吹き返させてその後何十年も世界の半分を切り離して冷戦を起こしてしまった。

それを思えば最大の戦犯(アメリカにとっても)はルーズベルトだったと言えるのかもしれません。

 

なかなか刺激的かつ面白い見方を示してくれたものでした。

本当かどうかは知りませんが。