江戸時代の百姓(農民)と言えば「無学で読み書きができなかった」「村は閉鎖的な社会で村外のよそ者とは付き合わなかった」「武士に対しては服従するだけだった」「農業は自給自足だった」というイメージがあるようですが、古文書から現れてくる実像というものはどうなのでしょうか。
著者の渡辺さんは大学の歴史学教授だった方ですが、千葉県松戸市に住みそこの旧家に伝わる文書を読んでいくうちに、上記のようなイメージとはかなり異なる農民たちの姿と言うものが見えるようになってきました。
下総国葛飾郡幸谷村(現千葉県松戸市幸谷)の名主であった酒井家の文書が数多く保存され、現在は松戸市立博物館に寄託されているのですが、それを解読し当時の農民の状況を見ていきます。
なお、古文書をそのまま掲載するとともにその読み下し文も併載し、さらに多くの絵図も載せられていますので、そういった方面に興味のある方にも参考になるでしょう。
幸谷村は村全体の石高は388石、明治初年で戸数が62で人口は360人ですから江戸時代にはこれより少し少なかったでしょう。
江戸時代の標準的な村の規模であったようです。
興味深いのは、村全体の領主と言うものが無く、この小さな村も3人の旗本の領地であったということです。
その領地も村をきれいに三分するというのではなく、バラバラに入り組んでいました。
ただし、どの家がどの領主に属するのかというのは明確に決まっていました。
そして、その領主ごとに農民も名主などの村役のもと、組織化されていたそうです。
領主が居るとは言っても、時代劇のようにその代官が村に常住しているということはありません。
村役がすべて取り仕切っており、年貢の納入の折りなどに領主のもとから武士が来るだけであったようで、ほとんどは村の自治に任されていました。
したがって、名主などはもちろん、農民それぞれも大方は子供の頃から寺子屋に通い読み書きを習っていたようです。
村の中での取り決めを「村掟」という形で文書化しているものも残っています。
苦しい生活のためか「作物荒らし」という犯罪も後を絶たず、それを防ぐための番人小屋の設置などということも取り決められていました。
江戸も末期となり旗本の生活も苦しかったようで、年貢の他にも上納金の命令も相次いでいたようですが、それに対しても黙って従うだけでなく農民側もあれこれと抵抗をしたようです。
領主から派遣されてきた武士が、横暴であった場合などはその武士の交替を領主に要求したという文書も残っており、それは叶えられたということです。
幕末近くなると農業生産も向上してきたのですが、それには土壌への肥料投入も欠かせないものとなっていました。
千葉のこのあたりでは、イワシなどの魚粉や綿の実などから油を搾った粕、そして江戸の屎尿が流通していましたが、購入にはかなりの資金が必要であったようです。
江戸の商人から購入した屎尿が、舟一艘分で金四両二分であったという記録があります。
また、こういった肥料購入の金子を横領してしまうといったトラブルも頻発していたようです。
なかなか、江戸時代の農民というものはたくましく生活していたようです。