「脱炭素化」すなわち石油や石炭、天然ガスなどの化石燃料を使わないようにしようという動きが活発化しているように見えます。
これ自体、その根本は間違っているとは言えません。
化石燃料は限りある資源であり、それをこれまでのように湯水のごとく使って行けばやがては無くなるものですから、その急激な欠乏がもたらす世界の破滅を避けるために徐々に使用量を減らしていくというのは正しい道です。
しかし、今言われている「脱炭素化」は決してそのような正しい道ではありません。
その大まかな印象は、「太陽光発電、風力発電、水力発電などのいわゆる”再生可能エネルギー”での発電、そして諸説あるが原子力発電で電力を得る」ことと、「化石燃料を使う内燃機関は使わず、電池や水素の燃料電池を使う自動車等を用いる」ことにほとんど絞られるようです。
これらの装置の謳い文句に共通しているのは「使用時には二酸化炭素を発生しない」ということです。
ここに最大の問題が隠れています。
これがこの「脱炭素化」の目指すものとして、「二酸化炭素濃度上昇による地球温暖化、そしてその影響と言われる気候変動を防ぐ」ということを設定したがための間違いなのです。
「化石燃料はやがて無くなるのだから、徐々に使う量を減らしていきましょう」という目標であれば極めて理性的に進められるはずでした。
しかし、二酸化炭素だけが問題かのようなことにしたために、「二酸化炭素さえ出さなければ何をやっても良い」かのような勘違いを世界中に広めてしまいました。
その大きな間違いが「その技術全体を見た時にエネルギー浪費となっている」ということです。
これは何度も書いているようにEPR(エネルギー収支比)のことで、得られるエネルギーに対して投入エネルギーがどれほど必要かということを示す指数です。
ただし、EPRとして出てきている数値は今のところまったく形だけで内容はお粗末なおのです。
製造から維持・廃棄まですべての段階のエネルギー投入量を計算するなどと言っていますが、穴だらけでしょう。
例えば、太陽光発電には発電パネル以外にも大量の金属部品を使います。
そのアルミや鉄の素材の原料鉱石の採掘エネルギーはきちんと算定され加算されているでしょうか。
風力発電などは見て明らかなほどの穴だらけです。
洋上風力発電などと言っていますが、それは何の上に設置するのでしょうか。
おそらく莫大な量の鉄材を組み合わせた船舶様の構造体なのでしょうが、それの製造エネルギーはどれほどと見積もっているのでしょうか。
結局、「エネルギー」で見ることなく、「二酸化炭素」だけを見ているからおかしなことになっています。
(もちろん、そのような素材製造などにあたっても二酸化炭素発生は莫大なはずですので、二酸化炭素だけを見ても成り立ってはいません)
太陽光発電や風力発電はその電力の安定性欠如がようやく一般的に知られるようになったのか、「平準化のための蓄電池などの整備」を言う人もいます。
電力の価値だけを見ればそれで幾分かは向上するのでしょうが、「それに費やす投入エネルギーや希少資源」のことは何にも考えられていません。
蓄電池製造には莫大な量のレアメタルが必要です。
現在の製造量ですらその確保が大変なことになっているのに、電力用の大容量蓄電池などということになれば資源量が相当なことになります。
しかも、その首根っこを押さえているのが中国ということは忘れているのでしょうか。
このように、現在「脱炭素化」と言われている開発方向性は、まったく「資源とエネルギーの無駄遣い」でしかありません。
これを国からの補助金なども注ぎ込んでやっていってどうなるでしょう。
結局は石油の供給枯渇に近づくところでエネルギーが何もなくなるということになるでしょう。
しかも、それに対応すべき社会変革は何もできていない。
もう社会崩壊に向かうばかりです。
なお、ついでながらそのような益の一つも出ない所に注ぎ込んだ国の補助金=国債も当然ながら何も帰ってきません。
そこからさらに崩壊の厳しさも増すのでしょうが、もう話すのもバカバカしい未来になりそうです。
今やるべきことはこのような「マヤカシの脱炭素化」を進めるのではなく「脱エネルギー社会を目指す変革」を起こすことです。
それこそが将来の悲劇から逃れる唯一の道でしょう。