爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

歴史の分岐点「歴史の”もしも”」を考える

「歴史に”もしも”はない」などと言われますが、しかしこれをあれこれ考えるというのは非常に楽しいことです。

 

それをネタに小説に仕立てたという作品も数多くあります。

フィリップ・K・ディックの「高い城の男」、豊田有恒の「モンゴルの残光」は私も読みましたし、他にも「歴史改変物」と言われるジャンルがあるほど、一般的なものとなっています。

 

ただし、あくまでも空想は空想で良いのですが、それでもそんなものは実現しないだろうなとも思われます。

 

第二次大戦で枢軸国側が勝利するというのは、どの時点でどのような偶然が働いてもやはりナチス大日本帝国も壊滅する運命だったでしょう。

モンゴル帝国も少々の歴史の偶然の積み重ねがあったとしてももう少し続くことができたかもしれないと言った程度で、その後長く世界帝国として発展するなどと言うことも無さそうです。

 

「天下分け目の関ヶ原」の戦いでも「もしも西軍からの裏切りが出なければ」とは言われますが、それでもその戦いの場だけのことだったでしょう。

その戦いで徳川家康や大物大名を捕らえ殺害するまでの大勝利となれば別ですが、東軍側が敗戦したとしても家康の本拠ははるか東方。

西軍がそこまで攻め込んで圧倒するなどと言うことはまず起きなかったことです。

そして豊臣側の体制はもはやガタガタですので、たとえあの関ヶ原で勝利できたところで、結局は潰されたのは時間の問題のはずです。

まあ、徳川幕府の初代将軍が家康ではなく秀忠になっていたかもしれませんが。

 

戦記好きの人達がよく話題にするような、太平洋戦争での大規模会戦での勝敗が転んだらというのも同様でしょう。

ミッドウェー海戦で空母すべてを失うという大敗をしていなければ、という思いがある人もいるでしょうが、もし偶然がすべて日本に味方してあの海戦で勝ったとしてもいずれは国力と政府や軍部の力の差が歴然と作用し日本が敗れることになるのは同様だったでしょう。

 

そのように、多くの「歴史の分岐点」のように見えるところでも、そこだけは偶然が作用して結果が変わったとしてもそのバックグラウンドの大勢には変わりはなく、やがて同様の現在に至ったと考えられます。

 

しかし、全部が全部そうだろうか。

 

もしかしたら、その時点での右に行くか左に行くかの違いがその後の将来のすべてをひっくり返したという事例がないだろうか。

 

実はその答えはまだ見つかっていません。

それは大きな戦争や大発明、要人暗殺などいったものではなく、何気ないちょっとしたことかもしれません。

 

まあ、暇な老人ですからじっくりと考えてみたいと思います。