いわゆる「アルヨことば」、小説やドラマなどで外国人(特に中国人)を描く時に彼らにしゃべらせる言葉というものは、しばしば耳にしたので記憶に残っています。
しかし、実際の中国人がこのような言葉を話すということは、まずあり得ないことのようです。
そのような言葉はどのようにして生まれ、広がってきたのか。
その様子と示す例が、宮沢賢治の作品「山男の四月」です。
これは1924年出版の「注文の多い料理店」という短篇集に収められていますが、他の作品に比べれば現在の知名度は低いようです。
そこでは、山里の町でドサ回りの「中国人の手品遣い」が現れ、子供を狙って人さらいもやるというものです。
その言葉が典型的な「アルヨことば」で「あなた、この薬飲むよろし、毒ない。私先飲む、心配ない」といったものです。
その2年後に発表された、夢野久作の「クチマネ」という作品にも怪しい「シナ人」が出てきて、片言風の日本語を操ります。
日本に多数の外国人がやって来るのは、幕末の開国から明治期に始まるのですが、その時に欧米人とともにその雇用者として中国人も多く来日してきました。
日本の庶民からしてみれば、実際に多く触れあう機会があったのは偉い欧米人ではなく使用者の中国人たちだったのかもしれません。
彼らと日本人が必要に迫られて会話をしていく内に作られていったのが「横浜ことば」でした。
なお、これは必ずしも中国人とだけ結びついたものではなく、欧米人、日本人、中国人を含めた関係者すべての間で出来上がっていった言葉なのですが、その後は中国人に強く結びついて考えられるようになります。
その後、こういった言葉が様々な文芸作品に用いられ広まって行きます。
宮沢賢治にとどまらず、坪田譲治、海野十三、そして田川水泡ののらくろシリーズなどでもアルヨことばを使う中国人という登場人物が出てきます。
ピジンという言語があります。
英語などの欧米の言葉と、植民地の言語が混ざり合ってできるものですが、日本語と他の言語とが混じりあうものもその接点では出来上がってきました。
横浜ことばもピジンの一種と言えますが、その後日本人と中国人などの接点ができるとそこで言葉が混じり合う現象がみられるようになります。
その例が中国東北部かつての満洲で見られた「満洲ピジン」というものでした。
満洲を勢力圏とした日本は多くの人々を送り込みました。
しかし彼らは日本人同士で固まって住みあまり現地の人との交流はなかったため、本格的な言語の融合というものは起きませんでした。
そのため極めて部分的なものではあったのですが、それでも若干の言葉の混ぜ合わせというものは起きたようです。
言葉の語順は日本語のまま、わずかに中国語の単語を入れ込んだ程度のものではあったようです。
満洲ピジンは日本の敗戦とともに消え失せたのですが、その残渣が中国に残り、抗日映画といったものに現れるようになります。
中国では侵略者である日本軍兵士を鬼子(グイズ)と呼ぶのですが、抗日映画として作られた多くの作品の中で日本軍兵士たちが話す言葉は満洲ピジンの典型を残したものだったようで、これを鬼子ピジンと呼んでいます。
日本軍兵士のステレオタイプ、ゆがんだ顔、目つきの悪さ、禿げ頭、団子ッ鼻、チョビ髭、猫背、デブが鬼子ピジンを話すというのが繰り返し描かれました。
戦後も日本ではアルヨ言葉は生き永らえ続いています。
手塚治虫の漫画にも、石ノ森章太郎のサイボーグ009にもそれが描かれています。
奇術師のゼンジ―北京というのも記憶に残るものでしょう。
昔からの類型通り、怪しい中国人の奇術師という役柄を守りました。
最近でも「チャイナ少女」というキャラクターがあちこちに登場しているようです。
ただし、さすがに最近では実際の中国人はアルヨ言葉は使わないということが広まってきて、新たな中国風訛りというものが作られています。
「アルヨ」に代えて語尾に「ネ」を付けるといったものですが、これも実際には中国人は使わないもので、やはりステレオタイプというものでしょう。
近いようで遠い中国ですが、それを描く一つの手段だったのかもしれません。