爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「時刻表に見る〈国鉄・JR〉電化と複線化発達史」三宅俊彦・寺本光照・曾田英夫・澤井弘之著

現在ではJRの幹線の多くは電化・複線化が完了しており、どこでも電車が快走しているような印象を受けますが、かつては単線の路線を蒸気機関車が走り回っていました。

しかし鉄道輸送近代化の名のもとに電化・複線化が推し進められ現在のような姿になったわけです。

 

JTBの時刻表には、昭和41年から毎年1回程度の掲載で、「ひとめでわかる電化と複線化区間」の地図が載せられています。

国鉄・JRの経営努力が示される意味もあり胸を張るように掲載したものでしょうか。

 

この本ではその時刻表の地図とそれに先行して作られていた昭和31年と39年の同様の地図を掲載し、その当時の電化・複線化の工事の進捗状況を解説しています。

 

私も子供の頃からの鉄道好き、昭和40年代には各地で蒸気機関車の最後の雄姿を写真に収めて回った経験がありますが、どんどんと蒸気機関車が廃止されていくという現象としては意識していたものの、それが「電化・複線化」の一環であったということには思い至っていませんでした。

しかし、確かにそれだからこそ蒸機廃止であったわけであり、この本で判り易く示されていると当時の状況も腑に落ちるという思いがします。

 

最初の地図は昭和31年(1956年)11月19日の日付のものです。

この日は残された米原・京都間の電化工事が完成し、東海道本線が全線電化した日でした。

特別急行の東京大阪間の所要時間も8時間から7時間30分に短縮されます。

この時点での電化・複線化区間を後の地図の様式に従って作られた地図が掲載されていますが、電化区間がごくわずかであるのは予想できるものだったのですが、それ以上に複線化区間が非常に少ないのが驚きです。

東海道山陽本線は全線複線ですが、九州では鹿児島本線も複線化は久留米まで、東北本線も宇都宮まで、常磐線も平までと言った具合で、幹線でも地方ではほとんどが単線での営業だったことが判ります。

 

次の地図は昭和39年(1964年)10月1日のものです。

これは東海道新幹線開業の日ですが、新幹線はその後の地図でも複線電化が普通だったので掲載されていません。

在来線の方はやはり新幹線の建設工事のあおりを食ったのか、31年のものと比べて進捗が遅いようです。

とは言え山陽本線は全線電化が完成しています。

そこも含め、ちょうどこの時期は父の仕事の関係で3年間福岡に住んでおり、九州内あちこちに観光旅行に連れて行ってもらいましたが、そのほとんどが未電化区間を通って行ったのだということが判り、個人的に興味深いものです。

 

昭和41年からは時刻表の企画ページに掲載された「電化・複線化概観図」を示しての説明となります。

この時期は私がいよいよ鉄道趣味全開、今でいう「撮り鉄」となってあちこちに蒸気機関車最後の活躍を見に行った時期とも重なり、それがどのような状況だったのかということも判り易いものとなっています。

 

鉄道関係者やファンの間では「ヨンサントオ」と呼ばれた、昭和43年10月の大ダイヤ改正では電化の進捗も一気に加速したようです。

東北本線全線電化完成、中央西線中津川まで電化、九州内複線化が進むなど、鉄道の近代化工事があちこちで目に見える形になってきました。

 

その後もこの「電化・複線化概観図」は掲載されていくのですが、JRとなりその主要な注力部分は新幹線の方に傾斜していったようです。

新幹線開通とともに第3セクター方式でJRから分離される路線も発生し、地図の様子も変わってしまいました。

 

かつてのあの「蒸気機関車」時代から、「電化・複線化」で鉄道の近代化を目指した時代というものは、経済成長期とも重なり活気は確かに大きかったようです。

それが私の場合はちょうど子供の頃から青少年期に重なりました。

それだけに時代の移り変わり観というものとも密接に関わるようです。