爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

東海道本線、半世紀前の車窓からの風景、その3,たぶんこれで終わり。

予備校から大学の時期にかけて毎日のように乗車して通学していた、東海道本線茅ヶ崎から東京の区間の車窓風景を記憶をもとに(少しだけネット情報も使い)再現しようという無謀な試みも行程の半分を過ぎ横浜からの区間へとなりました。

 

しかし、茅ヶ崎から横浜まではその当時でも時折下車する用事もあり、馴染みのあるところだったのですが、横浜からはあまり縁のあるところではなく、学生時代にはほとんど降りたこともないところでした。

その状況は以降に大きく変わり、川崎にはその後勤務のために単身赴任したりということもありましたが、ここではあくまでも学生時代の記憶ということでそれは略。

 

横浜ー川崎

ここは車窓風景も相当変わっているのでしょうが、それよりもとにかく鉄道路線の変化が大きかったところです。

ネット情報によれば東海道線横須賀線の分離、(SM分離と呼ぶそうです)ができたのが1980年、つまり私の大学卒業の後、私は就職して熊本に行ってしまってからのことのようです。

ということは、大学通学時の東海道線の状況はそれ以前の横須賀線との混在状態、今とは全く違った様子でした。

SM分離 - Wikippe

現在の状況は、横浜側からの上りでたどると、横浜から鶴見駅の先までは東海道横須賀並走、そして鶴見川を渡ったあたりから横須賀線は左に折れ、昔の品鶴線にそってもとの新鶴見操車場(現在の新川崎駅付近)、そして新幹線と近づいたところから新幹線にそってそのまま品川駅に向かいます。

それ以前は横須賀線東海道線は併用、そして貨物線が平行していました。

他の路線は、京浜東北線京浜急行線は現在と同様でしょうから、あまり外見上は変わりがないように感じます。

 

川崎駅はその当時はほとんど降りたこともありませんでしたが、その後一時住んでいたこともありその頃の記憶の方が鮮明になってしまいました。

しかし、橋上の改札口等は大きく変わりましたが、ホームなどの様子は昔とそれほど変わっていないように感じます。

 

この区間はどうも車窓の印象が薄いところです。

なぜかと思えば、どうやら朝の上りの電車でも茅ヶ崎などで座れなくてもかなりの確率で横浜駅では座れたからかもしれません。

やはりここで降りる通勤客は多く、その態度を見て立ち位置を変えており、横浜でうまく前の座席の人が降りると勝ち誇ったような気分で座ったものでした。

そこから東京まではしばしの休憩、あまり車窓風景も目に入らなかったようです。

なお、横浜駅到着寸前にそれらしい動きを見せても、結局は降りないという嫌な人もかなりおり、こいつは何か嫌がらせでもしているんかと思ったものです。

 

川崎ー品川

この区間も車窓風景のイメージはあまり残っていませんが、駅周辺の風景が変わったという点では品川は東京付近でも有数のところでしょう。

今では品川には新幹線駅もでき、東側の港南口の前にはビル街ができています。

しかし半世紀前にはそちら側には一応改札口はあったものの、駅前には「何もなかった」

その光景は今の品川駅しか知らない人にとっては異世界のように見えるかもしれません。

学生時代に、何を思ったのか一度だけその改札口から出てみたことがありました。

しかし、出てもどうしようもなく、そのまま戻ったように思います。

品川駅西側の高輪口側の変化はそれほどないように思いますので、余計に落差があるのでしょうか。

なお、品川駅の内部も相当変わってしまいました。

新幹線の駅となっている東側にはほとんど何もなかったため、東海道線のホームが最果てのような感覚でした。

山手線、京浜東北線のホームにはかなりの人がいるものの、そこを離れて東海道横須賀線のホームに来る人はまばら。

都会から離れて郊外へ行くという感覚が強かったものです。

 

品川ー東京

品川駅を出発した東海道線上り列車は最後の区間に向けて走り出します。

今では高輪ゲートウェイなどと言う変な名前の駅になってしまいましたが、ここはかつては広大な電車区で多くの電車が留置されていました。

上り線はその西側、下り線はその東側をはるか離れて通っていたように思います。

田町を越えると浜松町に近づき、右側から東京モノレールが近づいてきます。

その当時は空港には何の用もなく、モノレールに乗ったこともありませんでした。

まさかそのすぐ後に九州に住むこととなり、飛行機も利用することになろうとは。

有楽町を過ぎるともう東京着。

現在では東京は終着駅ではなく、上野からさらに北の方に向かいますが、当時は全列車が東京止まり、どなたさまもお降りのお支度をと車内放送が流れたものです。

通学していた予備校も大学もここからさらに乗り換えていましたので、東京駅は朝は通り過ぎるだけ。

ただし、帰りがけには時々出て買い物などもしたものです。

帰りの電車はその頃はすべて東京始発。

若かったとはいえ帰りはやはり座りたいということで、電車1本待っても座るということが多かったと思います。

当時はまだ学校は土曜もありました。

観光シーズンの土曜昼の電車には、ときおり社内旅行へ出発のサラリーマンの団体も乗っていることがありました。

こっちはようやく授業が終わって帰宅というところなのに、彼らは東京で乗り込むや弁当と酒を配り早くも宴会モード。

今は昔の光景です。

 

東海道線茅ヶ崎から東京の区間、今でも時々乗車することもありますが、その風景、雰囲気は半世紀前とは大きく変わってしまいました。

これが本当に同じ駅かと思うところも数々ありますが、それだけ都会の変化というものが激しいのでしょう。

(終わり)