水俣病の患者であることを認定するよう求めた裁判で、またも熊本地裁で原告敗訴の判決が出ました。
つい先日も別の裁判で最高裁で原告敗訴の判決が出ましたが、その際には「裁判所に正義や科学を求めても無理」といった記事を書きました。
裁判所に求めなければどこに期待すべきかという答えが無ければいけないと思いますが、難しいことです。
これは日本の政治というものが、一応学校で習うように「三権分立」と言われているものの、決して独立した存在ではないということが影響しています。
三権とは立法、行政、司法ですが、これは完全に同列ではなくやはり国民が直接選んでいる立法府が優越します。
しかし、立法府の多数党の自民党の総裁が行政の長である内閣総理大臣であり、その役割から言えば総理大臣としての存在が大きいものでしょう。
実態としては行政と立法はほぼ一体で総理大臣が君臨すると言えるものです。
それでは司法権の独立は守られているのか。
司法の独立については多くのサイトで語られており、それが確保されなければ政治の暴走が始まるという危機感は誰もが持っているようです。
しかし実際はどうなのか。
次の記事によればやはりかなり危うい状況のようです。
「司法権の独立」と「裁判官の独立」が憲法上は確保されていることになっていますが、そううまくは行かないようです。
最高裁判所の裁判官は内閣が指名します。
そして下級審の裁判官は最高裁の定める名簿に従って内閣が任命します。
この人事権の掌握がじわじわと進んで行くと内閣と一体の裁判所が出来上がるということでしょう。
水俣病訴訟でも原発稼働阻止訴訟でも、内閣の意向と異なる判断が司法の大勢となることはありません。(下級審の一部で異なる判決が出ることはあります)
やはり、内閣そのものを変えるしかないということでしょうか。
結局それは選挙で日本全体がその方向性を認めそれを選択するしかないということなのでしょう。
まあ、それが民主制だということです。