格差が拡大し貧困者が増加したと言われています。
しかし振り返ってみれば国民のほとんどが食べる物にすら苦しんだ終戦直後は皆が貧困だったとも言えそうです。
また、高度経済成長期には貧困者は減ったのでしょうか。
そういった事々は分かっているようで実は詳しい知識はほとんど無いのかもしれません。
そういった、戦後から今までの「貧困」について、その「かたち」を詳しく振り返っています。
終戦直後にはひどい食糧不足から「総飢饉」とまで言われたのですが、それでも特にひどい貧困に苦しむ人たちは居ました。
「浮浪者」「浮浪児」などと呼ばれた人たち、海外からの「引揚者」といった人たちは中でも非常に厳しい生活を強いられ、餓死する人すら多かったようです。
家を失い、戦時中の地下壕や何とか屋根だけ作ったような所で生活する「壕舎生活者」といった人たちも多かったのですが、その人々は「みんなが貧しい」時代のその「みんな」の最底辺に位置づけられるものでしたが、引揚者や開拓事業入植者、そして浮浪者といった人々はその「みんな」にも入れずに「特殊」な人々と見なされていたかのようでした。
上野の地下道にもっとも多くの浮浪児たちが集まったのですが、彼らの多くは戦災孤児で空襲などで親を失い行くところもなくなったのですが、国や自治体の支援もほとんど無く、粗末な収容施設に強制収容する「刈り込み」と言われた作業で集められる存在でした。
それもあくまでも地下道などの環境を良くするためといった理由が優先され、孤児たちの保護は意識の中では低いものだったようです。
戦災の復興は着々と進んで行ったのですが、その過程ではデフレ不況から企業の合理化を進め、またヤミ市の取り締まりも強化されると言うことが行われ、職を失う人が増加しました。
そのため政府は緊急失業対策法を定め地方自治体が直接日雇の仕事を作り出し賃金を支払うということが実施されます。
ただし、自治体にもそれほど予算があるわけでもなく、限られた人数のみに賃金が支払われるのみでした。
その日当も発足当時の東京の場合で240円、いわゆる「ニコヨン」の語源ともなった状態です。
その当時でも日当240円では生活はギリギリです。
簡易宿泊所(いわゆる「ドヤ」)の宿泊料が60円、職安に行くための電車賃も必要ですから、食事は一日140円しか使えません。
それでも仕事に就ければもらえますが、あぶれればそれすらありません。
戦災で家を失った人々が住んでいた掘っ立て小屋を「仮小屋」と言ったのですが、それも多くは公共用地に建てられていたため、それを撤去する動きが出ます。
撤去と言っても代わりの住まいを用意するわけでもなく退去させるだけなので、その人たちは別の場所にまた仮小屋集落を形成しました。
多くは屑物収集業者、バタヤが多かったためバタヤ部落などと呼ばれました。
公共用地から追い出されたので、河川敷などしか行く場所がなくなりどの都市でもそういった場所にかたまっていったようです。
復興が進みやがて経済成長が始まりますが、それでも社会の底辺部に居た人々の貧困が減ったわけではありませんでした。
そこには国のエネルギー政策変換によりどんどんと進められた炭鉱の廃止で失業した元炭鉱夫たちも含まれていました。
戦後すぐの頃には失業したり引揚で帰国し職の無かった人々の受け入れ先として多くの人が炭鉱に向かったのですが、何年も経たないうちにそこの職も失われることとなりました。
そういった人々が集まったのが、都会で盛んになった建設工事などの下働きとしての日雇労働でした。
ドヤに住み、寄せ場と言われる地区に集まり、毎朝の求職場所へ出向き仕事があればその日は食べるものが買えるというギリギリの生活でした。
三大寄せ場と言われたのが、大阪・釜ヶ崎(のちのあいりん地区)東京・山谷、横浜・寿町でした。
その後の話は現代の貧困問題を扱う本でも見た内容ですので、詳述は避けますが、多重債務問題、ホームレス、ネットカフェ難民、子供の貧困といったことが描かれていました。
貧困の「かたち」を描写するというのは、本書著者の考えもあり、貧困の裏にあるものを考察するよりは実際に現れた「かたち」を描く方がイメージが取りやすいと言ったことだと思います。
現在でも変わらないのですが、普通に生活しているつもりの人がちょっとしたきっかけで底なし沼のような貧困に陥ってしまう、そういう危険性は常に誰の隣にもあるということなのでしょう。