雑草Zさんの「雑草の言葉」でも以下のように取り上げられていましたので、こちらも持続可能性について書いてみましょう。
「持続可能性を妨げるものは何か」
持続可能とは平たく言えば「この先何千年も何万年も続くようなこと」でしょう。
ところが人類自体、猿人や原人の時代から考えても200万年、新人類ホモサピエンスになったのはわずか20万年前です。
農耕が始まり古代文明に続くのも1万年前から。
これまでの人類文明の歴史自体が1万年しかないのに、この先数万年も続くということがどういうことかということは考えることも難しいものです。
SDGsなどと言われていますが、そこではおそらく「ちょっと良いことをやりましょう」程度の認識しかないのでしょう。
とても「数百年は続く生活様式にしましょう」などということですら考えているとは思えません。
そのように、「持続可能性」を妨げているものは何なのでしょうか。
それは「資源の持続性を考慮していない」
(特にエネルギーに関して)
「経済成長というものから逃れられない」
ということがそれだと考えられます。
まず第一に「資源の持続性を考慮していない」ということはどういうことでしょうか。
誰もが理解できるようなその例が「化石燃料」です。
化石燃料とは石油や石炭などの古代の生物などが作り出した有機物質が土に埋もれて出来上がったものです。
それができるまでには数千万年から数億年かかったと考えられますが、いずれも太陽エネルギーが濃縮されたものです。
これらは使い果たせばもう再生することはなく、いずれは枯渇します。
つまり、化石燃料はいつまでも持続することはなく、やがて無くなるものです。
これらを使うことは「持続可能」ではありません。
そのような技術体制も決して「持続可能」とはなりません。
鉄やアルミニウム、レアメタルなどの金属資源はどうでしょうか。
これらは元素としては安定しているものであり、核分裂などで元素が変換しない限りは地球の中での存在量は不変です。
それなら、これらの資源は無限に使えるのか。
それは不可能です。
元素の地球内での存在量は一定と考えられますが、地球誕生以来の地球科学的な動きのために元素の偏在と言うことが起きています。
元素の存在度(かつてはクラーク数という言葉が使われました)は推定されていますが、もしもそのすべての元素が均等に配分されていたら金やプラチナなどの貴金属は絶対に目に見えるほどには集まりません。
それが金鉱などという形で特異的に集中しているところがあるために、人間が金として使うことができます。
しかし、様々な用途でこれらの金属資源を使うということは、元素をばらまいていることになります。
レアメタルを携帯電話などに使って、それがゴミとして散乱していると言われていますが、それを資源と見るなどということも言われます。
しかし、それもタダでできるわけではありません。
集めて、細かく崩して、分類して、溶かしてようやく金塊に戻すということを考えただけでも、相当な手間とエネルギーを消費するということが判ります。
木材や農産物といった植物などはどうでしょう。
これは「太陽エネルギー」を変換して生物体にするという光合成によりできています。
この太陽エネルギーも実際には無限に続くわけではなく、数十億年で終わると言われており、その意味では完全な「持続可能」ではありません。
しかし、ちっぽけな人類の歴史から見れば無限に続くと考えても差し支えないとすれば、これは「持続可能」と見なすことができます。
つまり、植物の利用ということは持続可能と考えることができるということです。
ただし、間違えてはいけないのは、その総量はかなり小さいものに過ぎないということです。
これを意図的に混同させて「植物利用なら持続可能」と唱えている人々がいますが、そのようなことが成り立つはずもありません。
植物の利用でもっとも不可欠なのが、食料としての使用です。
植物の直接利用の他に、動物の食料としたうえで肉や魚として食べることも含め、人間が食べる食料はすべて植物に頼っています。
それだけでも相当な使用量になりますが、さらにその上に燃料用やプラスチック代替などとして植物を利用しようとしても、それほどの植物資源は得ることはできません。
これは産業革命以前に木材を直接的に燃料としていた時代でも同様でした。
人間の住む地域に隣接する森林はどんどんと伐採されてしまいました。
それを化石燃料を使うことで代替した現代文明は当時とは格段に違うほどの大量のエネルギー消費を行っています。
化石燃料を使わなくするためにその代替に植物を使おうとしても、そんな量の植物が得られるはずもありません。
どうやら、「資源の持続可能性」というのは特にエネルギーというものに深く支配されているようです。
次回に「エネルギーの持続可能性」について詳述します。
(続く)