「家長」とはその家で一番偉くて決定権を持つ人のことです。
家制度が強固で、家全体として外敵に立ち向かわなければならなかった戦国時代ですが、そのような時代だからこそ、女性が家長を務めなければならないということがよくあったようです。
数年前にNHKの大河ドラマで「女城主」というものが放映されていましたが、そういった事情があちこちの大名家や国衆家にも起きていました。
(なお、そのドラマの主人公は実際には男性だったという史料が著者の研究で見つかったようで、この本では一言触れてあっただけです)
その事情とは、家長であった男性が病気や戦死などで亡くなり、跡継ぎとなるべき息子などがまだ幼少であるということです。
そう言った場合、家長の男性の正妻(家妻と称しています)が跡継ぎが成長するまでの間家長としての役割を果たさなければなりません。
そのような状態を本書では「おんな家長」と表わしています。
こういった状況を証明する史料としては、当人が発給した公文書があるかどうか、そして当時の周囲の他者からの公的な書簡などでその女性を家長として遇しているかどうかが挙げられます。
このような史料が見つかった場合にはその女性が「おんな家長」であったと言えるということです。
戦国時代でも初期の頃では「家宰」と呼ばれる立場の臣下が居るかどうかも影響してきます。
そのような有力な臣下が居れば女性を家長としなくてもなんとか家を保つことができたのですが、戦国時代後期には臣下にそのような強力な者を作らないようになったのか、そういう存在が見られなくなります。
そのために「おんな家長」が出現するのがその頃からに目立つようです。
本書ではそういった「おんな家長」となった戦国大名や国衆という、比較的大きな家の女性たちを18人取り上げています。
もっと小さな家にはさらに多数の女性たちが居たかもしれませんが、はっきりとした史料が残っている場合は少ないようです。
特に多かったのが東北地方であり、やや小さい国衆家だけでなく岩城氏、芦名氏といった大きい家でも居たことが証明されています。
これに何か地域的な要因があるのかどうか、はっきりはしていないようです。
家としては最大にして、そして最後の「おんな家長」と言えるのが浅井茶々です。
これは普通は「淀君」と呼ばれる、浅井長政の長女で秀吉の妻となった女性ですが、実は「淀君」という呼称は当時は使われていないため、父の氏の浅井に、これは確かな名前である茶々を組み合わせて使っています。
なお、茶々が秀吉の「側室」であったと普通は見られていますが、そうではなく正妻の一人だったと見られます。
呼称も「御上様」「「北の方」「北政所」「御台様」などと呼ばれており、正妻という立場であったのは間違いないようです。
北政所といえば秀吉正妻の「ねね」であろうというのが普通ですが、これも別に固有名詞ではなく正妻が複数いれば使われていたようです。
それでも格はやはり「ねね」が上だったのですが、同時に大阪城に居た際には「両御台様」と呼ばれていました。
しかし秀吉死後の慶長9年9月に寧々は京都に去り隠居したと見られますので、それ以降は茶々が家妻の立場となり、秀頼がまだ若年であったためにおんな家長となったと考えられます。
その具体的な執政の事例はよくわかっていませんが、片桐且元が家老であったためにある程度は任せたものの実質的な決定は茶々が行っていたと思われます。
しかし、茶々の行政能力はほどんど未熟なものでありとても羽柴家を支えていけるものではありませんでした。
さらに片桐且元をおそらく徳川家の謀略で追放することになってしまい、滅亡に向かうこととなりました。
「おんな家長」の時代はこれを最後にまったく終わってしまいます。
江戸時代の幕藩体制では大名家だけでなくどんな武家の家でも女性が主となることはできませんでした。
さらにその最後の象徴的な例であった羽柴家の茶々の能力が極めて低かったとみなされることが、女性の行政能力自体を認められないとする次代の雰囲気を作ることにもなったようです。
それが今に至る日本のジェンダーギャップにも影響を与えているかもしれません。