日本は格差社会や貧困社会になったと言われています。
しかし。森岡さんによれば「雇用身分社会」と言わねばならぬ状況になっているということです。
「雇用身分」とは何か。
最近起きたある事件ですが、「派遣社員は会社の社員食堂を使えない」ということでトラブルが起きたそうです。
こういった例が頻発しています。
まるで、正社員や派遣、パートといった雇用形態がまるで「身分」になってしまったかのようです。
このような状況は、決して今に始まったことではありません。
誰もが聞いたことはあるでしょう。
明治初期に文明開化、殖産興業ということで工場創業が相次ぎ、特に紡績工場が各地にできました。
そこには各地の農家などから集められた少女が働かされていたのですが、その就業条件は劣悪で長時間労働は当たり前、多くの人々が次々と病に罹り死んでいきました。
実は現状の労働というものもこの「女工哀史」の状態に戻ってしまったかのようです。
戦前の「女工」というものは、雇用形態でも現在の「派遣」とそっくりです。
工場が直接募集して契約したものではありません。
「募集人」とか「紹介人」と呼ばれた者たちが各地を回り生活困窮世帯の子女を言葉巧みに連れ出して工場に連れてきたものでした。
「前借」で金を渡している場合も多く、彼女たちはひどい仕事内容や待遇でも辞めることすらできず体を壊していきました。
まるで、あの売春婦を集めていた女衒と一緒です。
事実、その連中の前身もかなりそれと重なるようです。
昔の話で、「ひどい時代もあったものだ」と思っていたし、そう感じている人が多いでしょうが、それと同じ状況が再び蔓延してきているのです。
なお、現在の大河ドラマで「日本資本主義の父」などと持ち上げられている渋沢栄一ですが、このような労働者の待遇改善というものにはあまり関心もなかったようで、「機械は夜間も動かす方が得策」とか「職工たちが病気になるということは調査もしておらず見聞きしていない」などと発言したという記録が残っているようです。
当時の工場では労働者にも多くの階級があり、多くは最下層の職工でした。
社員と職工の差は大きく、すべての待遇に大きな違いが付けられていました。
女工哀史ではこれを「階級」と呼んでいますが、著者はこれは「身分」だとしています。
そして、このような「雇用身分」というものがこの現代でも再びよみがえり社会の隅々にまで広がってきているという認識です。
1980年代以降、派遣労働の拡大の動きは強まり、どんどんとその範囲は広げられました。
最初の頃は専門労働者のみに限られその給与も高かったのですが、徐々に単純労働に広げられると給与も最低限に近いものとされてきました。
パート・バイトといった人々も、その本来の意味である「パートタイム」などは忘れられ、単に待遇を最低に抑えただけのフルタイム労働者となっています。
企業の雇用コストを下げるだけが目的でした。
ただし、戦前の労働者雇用と大きく違ってしまったのが「正社員の状況」です。
昔の工場の「社員様」は恵まれた状態だったのですが、今の「正社員」の労働条件のひどさはよく知られているところです。
労働基準法などどこにあるのか、長時間労働が当たり前となり、過労死が相次いでいます。
それに耐えられなければ正社員としての給与(それも大して高いものではありません)が得られないかのようになっています。
このような状態にしてきたのは、経済界の要請とそれに応えて制度を変え続けてきた政府の責任です。
グローバル経済の劇化で国際競争力を付けなければならないということがのしかかり、技術力を向上させるといった正道ではなく労働コストの切り下げと言う安易な道を選びました。
政府や自治体みずからが率先して公務員の削減と非正規職員化を進め、今では非正規率は民間よりはるかに高いようです。
その給与も最低水準に抑えられてしまいました。
最終章には著者の提唱する「雇用身分社会から抜け出す道」が書かれています。
1労働者派遣制度を抜本的に見直す。
2非正規労働者の比率を引き下げる。
3雇用・労働の規制緩和と決別する。
4最低賃金を引き上げる。
5八時間労働制を確立する。
6性別賃金格差を解消する。
何も目新しいことでは無く、当然のことばかりです。
これらを実施し「まともな働き方」ができるようにする。
これこそが「新しい資本主義」であるでしょうし、日本が生き残る道なのでしょう。
また久しぶりに「読んでいて怒りが次々とこみ上げる」本に出合いました。
もちろん、本書の内容にではなく、そこに書かれている社会状況に対しての怒りです。
このような状況に落とされてしまった人々がすでに日本人の多数を占めているはずですがなぜ彼らは何も言えないのでしょうか。